開かれた学問(77)

 普通の病気に近づいたエイズ 
−附属病院における経験と今後の課題−

文・ 高 田   昇

 
突然エイズは現れた

 一九八二年末にアメリカの医学雑誌に、血友病に新しい病気が発生したと報告された。それはその一年前に若いゲイ(同性愛者)に奇妙な病気が広がっているという噂のAcquired Immunodeficiency Syndrome(以下エイズ)という病気だった。特定のリンパ球の数が減って免疫の力がなくなってしまうというもので、死亡率が高く原因は不明であった。私は血友病の治療にあたっていたが、人知れぬ不安を感じたことを今でも憶えている。血友病では血液の中に不足する成分があり、健康な人から成分を集めて血液製剤を作り治療に使う。当時、日本の患者の治療は外国の血液に依存していた。血液でうつる病気で同じ原料を使っているとしたら・・・まさか、と思った。


ジレンマの中で

 一九八四年の春から加熱処理をした血友病治療薬による治験が始まった。ところが治験途中の九月に、加熱処理でウイルスが不活化するという短報がイギリスの医学雑誌に掲載され、不安は現実的なものになった。目の前の患者さんが既にこのウイルスに感染しているかどうかわからない。治験に参加する患者さんはその後感染から免れるが、参加しない患者さんは感染する可能性が高まる。すでに感染していれば、治験は役に立たないかもしれない。出血している患者と話し合いながら、治療をするか我慢するか決めるほかなく、悪夢のようだった。


エイズから逃げない

 エイズの原因ウイルスは後にヒト免疫不全ウイルス(Human Immunodeficiency Virus:以下HIV)と名づけられた。一九八六年四月に大学病院で診ていた血友病患者の四割がHIVに感染していたことがわかり、覚悟はしていたが愕然とした。いわゆる薬害HIVが個々の医療現場で避けられたかは判断が難しいが、医療が新しい病気を起こしてしまったのは事実で、何ができるか見当もつかなかったが、私たちはこの病気から逃げないことを心に決めた。


HIV=エイズウイルス

 小さな生物が他の大きな生物にとりついて、自分の種を増やそうと利用するのが寄生で、とりつかれた生物にとって都合が悪い場合を感染症といっている。ウイルスは自分でエネルギーを作ることができないので、感染した相手の細胞の中の道具を利用する。HIVは細胞の遺伝子の中に潜り込み、一度侵入すると細胞が死なない限り居続ける。HIVは数千年以上前から、アフリカのチンパンジーに代々伝わってきたもので、人間に感染して強い病原性をもってしまったようだ。


HIVが感染する相手は免疫機能の中心

 HIVはCD4リンパ球(人の免疫機能の司令塔で、病気に対する抵抗力の中心を担っている細胞)に感染する。このリンパ球の中でウイルスが増えて、また隣のリンパ球に持続感染を起こす。HIV感染症の本質は、ウイルスが増えることによって、CD4リンパ球が減り、身体の抵抗力が落ちる病気なのである。

HIV感染=エイズではない

 免疫力が極度に低下して、通常であれば十分に抑えられるほど弱い病原体さえ抑えられなくなる。このような感染症のことを「日和見感染症」と言う。HIVに感染しても免疫力が保たれて病気に対する抵抗力があれば、エイズとは言わない。しかし免疫力が低下して、カリニ肺炎やカンジダ食道炎など二十三種類の日和見疾患のどれかになったら、エイズ発病という。感染から発病までの時間は個人差が大きい。早い人で二年、遅い人で二十年以上、平均で十年かかる。身体の中では日々、リンパ球とウイルスとの闘いが繰り広げられ、この攻撃の力と守る力のバランスが病気の進行速度を決めているようだ。

HIV増殖の仕組みと治療薬

 HIVが増える仕組みが理解され、多くの治療薬の開発に結びついている。【図1】ウイルスの遺伝情報は二度コピーされる。一回目はRNAからDNAへのコピーで逆転写と呼ばれ、HIVの逆転写酵素を使う。このDNAが細胞の遺伝子DNAの中に組み込まれる。これはプロウイルスDNAで、人間の遺伝子の中に忍び込んだウイルス遺伝子である。プロウイルスDNAからウイルスのRNAやメッセンジャーRNAへのコピーは転写という。メッセンジャーRNAの指令に基づいてウイルスの部品が作られ、細胞表面近くで組み立てられて出ていく。成熟した部品を作るために使う酵素がHIVプロテアーゼである。HIV感染症の治療薬はHIV特有の酵素の働きをじゃまする阻害剤である。逆転写酵素阻害剤はHIVが人間の遺伝子の中に潜り込む前で阻止するし、プロテアーゼ阻害剤は成熟したウイルスが出ていかないようにする働きがある。

【図1】HIVの複製と抗HIV薬 


HIV感染症の治療戦略

 ウイルス増殖、免疫能低下、日和見疾患というステップから、治療戦略は「ウイルスが増えるのをしっかり抑えれば、病気は進行しない」と言えるようになった。治療の根幹は多数の抗ウイルス剤を効果的に使い分けることに中心が移ってきた。そして三年前には考えられなかったような成功を収めるようになった。

最新治療の光と陰

 アメリカでは一九九六年以降エイズによる死亡者数が毎年減少している。患者の健康状態も改善し、入院する人がいなくなり、ホスピスも次々と閉鎖された。患者は家庭生活を取り戻し、社会復帰を果たした。これが現在の治療の光の部分である。一方で陰の部分としては、治療の複雑さ、副作用、医療費・薬代の高騰などの問題がある。

薬が効かないHIVの出現

 最も困った問題は、薬を飲んでも効かなくなる薬剤耐性HIVの出現である。現在十四種類の薬があるが、治療のオプションはそんなに幅広くないのである。最近のアメリカの報告では、新たに感染した患者の二割に薬剤耐性ウイルスがみつかるという。つまり薬を飲んでいるからと安心して、防護のない「危険な感染行為」が行われていることを示している。

体からウイルスを追い出せない

 治療を続けて長い間ウイルスが検出されなかった人が、治療をやめるとどうなるかという研究がある。中止後三週間以内にウイルスが増えてしまった。当面、ウイルスを抑えることはできても、完全に体から追い出すことは無理なようだ。

慢性疾患は本人が受け入れること

 治療開始の目安としては、病気の状態の評価以上に、患者自身が自分の病気をしっかり受けとめ、本気で治療をする気になっているかどうかが大切だ。これは医師のみでは不可能で、看護婦、カウンセラー、ソーシャルワーカー、薬剤師など多職種の関与が必要である。病気を持ったまま家庭生活、社会生活を続けるためには、医療だけの力ではなく、さらにパートナー、家族、友人、ボランティア、地域社会全体の理解やサポートが欠かせない。

中四国の責任を負う広大病院

 エイズという病気は新しい病気なので、ほとんどの医療従事者は教育を受けていない。その上、病気の理解や治療が急速な進歩をしていて、高度な専門性が必要である。厚生省は薬害HIV訴訟の和解に伴い、エイズの診療体制を整えるため全国に拠点病院を立ち上げた。広大病院は中国四国ブロック拠点病院の一つとなり、全科的な医療提供とともに、心理・社会的ケアも提供し、ブロック内の医療従事者への教育・研修の実施や情報発信、そして基礎・臨床研究の役割を負っている。中四国エイズセンターのインターネットホームページ【図2】は、一九九八年一月以来、四万件アクセスされている。

【図2】(http://www.aids-chushi.or.jp


世界に爆発的に広がるHIV

 HIVの感染経路は、汚染血液の輸血や注射、感染者との防護のない性行為、感染母体から新生児への感染に限られる。WHOは一九九八年末で世界には三千三百万人のHIV感染者、そして二十世紀の終わりには四千万人になると推計している。日本の新規感染者・患者数は毎年、前年度を上回る数が報告されている。一九九九年八月二十九日現在、六一五四人のHIV感染者・発病者となった。横ばいになったというアメリカでさえ、実に毎年四万人が感染しているのである。
 すでにHIVに感染している人には、健康を維持し、できるだけ充実した生活ができるような支援が必要である。HIVに感染しているかどうか不安な人には、安心してHIVの検査を受けることができることが必要である。これからHIVに感染する可能性がある人には、無知のために感染してしまわないよう知識と技術を伝える必要がある。キーワードは「セックス」と「差別」であろう。医療だけではなく、教育や社会が果たす役割は大きい。大学というコミュニティーと、構成員全員に考えて頂きたいと望んでいる。

 プロフィール

(たかた・のぼる)
☆一九四八年 広島市生れ
☆一九七四年 広島大学医学部医学科卒業
☆広島大学医学部附属病院助手、講師を経て、現在、広島大学医学部附属病院輸血部・助教授
☆血液内科学、血液凝固学、感染症学、輸血医学専攻



 
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