天女からのメッセージ
夢を信じて

向井千秋さんの講演から




 日本人女性として初めて宇宙を飛んだ向井千秋さんの講演が、平成十一年十一月四日に三千名を超す、小・中・高校生、一般市民の熱気で満ちた東広島運動公園体育館で行われた。原田学長からの、一年前の今日、宇宙にいた「天女」に講演をお願いしたという紹介の後、向井さんの夢あふれるお話があった。


宇宙での素晴らしい経験

 皆さんこんにちは。
 すごく元気な皆さんが集まってくれて、とってもうれしいです。私は皆さんに会うのをとっても楽しみにしてきました。私は去年の今頃、宇宙にいたのです。そして私たちが住んでいる素敵な地球を宇宙から見てました。広島もよく見えました。とってもきれいでした。今日は、小学校、中学校、高校の皆さん、そして一般の皆さんに、私が去年宇宙でどんな仕事をしてきたか、どうして宇宙に行くと面白いのかをお話したいと思います。
 私は去年本当に素晴らしい経験をしました。私たちの宇宙飛行は科学実験を行う飛行だったのですけれども、宇宙に行って仕事をする、それだけでも素晴らしいことだったのですが、私にはさらにまた二つ、とっても素晴らしいことが去年の宇宙飛行で起こったのです。
 そのうちの一つは、宇宙の無重力、ものがフワフワ浮いている、そんな姿がとっても面白くて、皆さんとぜひその宇宙の無重力の面白さを一緒に感じたい、そんなふうに思って歌を詠んだのです。「宙がえり何度もできる無重力」。そしたら、日本全国から十四万五千通くらいの多くの人が、それについて下の句を詠んでくれたのです。とってもうれしかったです。私は、自分でも下の句をつけました。それは「着地できないこのもどかしさ」というのを作ったのです。どうしてそういうのを作ったかというと、宇宙で宙がえりは誰でもできるのです。地球上だったら、練習しなければいけないような、難しい宙がえりも宇宙では簡単にできます。宇宙でやると易しいこと、宇宙でやると逆に難しいことがあるのです。
 そしてもう一つ、とてもうれしかったことは、アメリカの大英雄、アメリカ人で初めて地球をぐるっと回った七十七才のジョン・グレンさんと一緒に飛行をしたことです。彼がいつも言っていました。「夢を持ったり、何かやりたい、そんなふうに思うのは、ここにいるみんなみたいに小学校の人も、中学校の人も、高校の人も、みんな思うけれども、若い人たちだけじゃなくて、もっともっといろんな人がそう思う。夢は年令とは関係なく、七十七才になったから、年をとったから夢が無くなってしまう、そんなことでは無い。自分のやりたいことがあったら、いくらでもやっていこう。」そんなふうにグレンさんは言ってくれました。こんな素晴らしい仲間をいっぱい得て、素晴らしい仕事ができました。
 乗組員が宇宙に行くということが決まると、それぞれの乗組員の名前が入ったクルーパッチ、乗組員のパッチができます。私の生涯の宝物みたいなものです。今回のデザインはディスカバリー号、そしてスペースシャトルの周りに七人の名前が入っています。私の名前もグレンさんの横に入っています。今回の飛行は乗組員が七人、そしてグレンさんが初めに乗った宇宙船の名前が「フレンドシップセブン─友情の7─」という名前の宇宙船だったので、真ん中に7の数字を入れました。そしてスペースシャトルの周りを小さな赤いカプセルがフレンドシップセブンにちなんで回っています。
 私たちの乗組員は国際的でした。宇宙では、いろんな国の人と一緒に働きます。アメリカの人がほとんどですが、日本からも日本の女性、私が出ました。高齢の宇宙飛行士も来ました。そしてヨーロッパからはスペイン初の宇宙飛行士が来ました。こういう七人が力を合わせて宇宙で生活し、そして仕事をしてくる、そんな飛行だったのです。


打ち上げから帰還まで

 打ち上げはちょうど去年の十月二十九日で、九日間の飛行でした。宇宙といっても、そんなに遠い宇宙じゃないのです。地表から五五○キロぐらいの高さの所を回っていました。
 一周するのにどのくらいか分かりますか?九十分。九十分というのは一時間半たつともうスペースシャトルは地球を一周します。そうすると四十五分間は夜、そして四十五分間は昼間です。でもそれだと忙しいから、私たちは地球の時計を持って行って、みんなと同じ二十四時間が一日、そういうふうな生活をしていました。
 よく「向井さんは打ち上げの時に怖くなかった?」「前日寝られた?」というふうに聞く人がいるのですが、私はぐっすり寝て、この打ち上げに臨みました。なぜって、この日に向かって、みんな一生懸命訓練しているのです。全てのものを順調にそろえてきて、そして「いよいよ宇宙に行くぞ、宇宙でいい仕事をしてくるぞ」そんなふうにみんな思っていました。ですから、ロケットに火がついた時「よーし行くぞ」そんなふうな思いで宇宙に飛び立ちました。
 私の宇宙での主な仕事は、スペースシャトルの荷台にある実験室で、いろいろな、宇宙でしかできない実験をやることでした。実験以外には、スパルタンという名前の人工衛星を軌道上に運んだり、太陽のコロナを観測する、そんなこともしました。
 実験としては、植物の実験、音がどう伝わるか、水がどんなふうに流れるか、材料科学の実験など、地球上ではなかなかできないことを行いました。宇宙は、重力、重さのない世界ですから、そこでは、体にどんなふうな変化がおこるのか、細胞だとか、小さな動物たちがどうなるのかという実験もしました。そして、キュウリとか、お米とかがちゃんと発芽、芽を出せるかどうか、そんな実験もしました。
 十一月の七日に無事帰還しました。宇宙での仕事を終えて無事着陸したときは、とってもうれしかったです。無事帰還して驚いたのは、誰かが背中に乗っているみたいにギューッと押され、体がすごく重いのです。着陸した後に撮った写真を見ると、宇宙飛行士はみんな元気で手を振っています。でも、横から撮った写真を見ると、背中が曲がって足も開いている。それは、この時みんな元気そうに手を振っていても、肩にものすごく重い力、地球の真ん中に引っ張られている重力を本当に感じているからです。話は戻るけど、スペースシャトルがだんだん地球に近づいてくると、物をパッと離すと物が落ちる、その速度がどんどんどんどん速くなってくる。例えば、みんなが今日家に帰って、ボールペンでも何でもいいからポンと落としてみてください。何だ当たり前だと思うかもしれない。みんな、物が上から下に落ちるのは当たり前だと思っているでしょ。それは、いつも見慣れているからです。でも、宇宙は物が落ちない世界。手を離してもそれがふわふわふわふわ浮いてしまう。物を置くことができない。そういう世界です。そんな所にいて、私たちが今住んでいる地球に戻ってくると、物が落ちるということが私には面白くてしょうがなかったのです。だから帰ってきてしばらくは、いろんな物を落として遊んでいました。「えっ落ちる、こっちも落ちる、こんな速く落ちるのか」そんなふうに思いました。とっても新鮮でした。




生きている地球

 宇宙から見た地球はとってもきれいでした。私は一番初めに宇宙から地球を見たときに、とっても自分がうれしくなったというか、自分自身を誇りに思いました。こんな美しい地球を自分の故郷として、世界中のみんなと一緒に住んでいる、そんなことがとても誇らしく思えました。それぐらい、地球はきれいに見えました。宇宙の黒さというのは真っ暗なのです。本当に地球上で見たことがないくらいの真っ暗、吸い込まれるみたいな黒、何も反射しないから。そこに青い地球が浮かんでいます。そして、雲がとってもきれいで、ちょうど青い地球が雲のきれいなレースの洋服を着ている、そんなふうに見えます。地球の空気の層は本当に薄い。私が宇宙から思ったことは、地球というのは私たちと一緒に生きているということです。宇宙から地球を見ると、ああ、あそこは人が住んでいる場所だなあ、ここら辺はいろんな動物が保護区域で住んでいる場所だなあと、そんなことがわかります。地球は自分が持っている資源を私たちに分け与えながら、私たちと一緒に本当に生きているんだなあと、そんな気がしました。そんなふうに思うと、ちょうど人間って小宇宙と言われていて、いろんな複雑な機能を持っています。こういった人間と同じで、大きな宇宙からみた地球も、ひとつの生命体、生きているものとして、まったく同じように生命を営んでいるのだなあと感じました。


大切なのは夢を持ち続けること

 「仕事場は宇宙」私がとっても好きな言葉です。もともと英語で「ワーキングインスペース、リビングインスペース」という、宇宙で生活し、宇宙で生きるという言葉があり、それを私の一回目の飛行の時に、自分のキャッチフレーズとして、「仕事場は宇宙」という日本語にして使ったのです。私はみんなと同じぐらいの時に宇宙飛行士になりたかったのですかと、よく聞かれますが、そうではなかったのです。
 私の一番初めの夢は、お医者さんになって、病気で苦しんでいる人を助けたい。それが夢だったのです。当時宇宙飛行士というのは、確かにガガーリンとかいろんな人が飛んでいたけれども、日本の人、あるいは科学者などの一般の人が宇宙飛行士になれるとは思ってなかったのです。だから、ちょうど私が小学校四年の頃の作文に、ぜひ医者になって病気で苦しんでいる人を助けたいと書いたのです。なぜ医者になりたかったかというと、私の弟は足が不自由でギブスを付けないと歩けなかった、だから何とか助けたいと思ったのです。それでずっと医者になりたいという夢を持ってきたのです。けれども、ちょうど私が三十二才の時に、突然、日本の宇宙飛行士を募集するという新聞記事を読みました。私はとても驚いたのです。どうしてかというと、今と違って、当時、誰も日本人は宇宙に行っていなかった。私には、日本人が宇宙に行けると思えなかった。そんなときに、突然、日本人も宇宙に行けるという新聞を読みました。なおかつ、宇宙に行くのはパイロットだけじゃなくて、地球上でいろんな仕事をしている科学者、そういう人を宇宙に送り出したい、そう書いてあったのです。驚きました。その時は三十二才で、ちょうどみんなのお母さんと同じくらいの年だったかもしれない。でも、その小さな新聞記事を読んだおかげで、私は二番目の夢、いつか宇宙に行って、自分の住んでいるふるさと地球を自分の目で見たい、そういう夢を持つことができました。
 もちろん、その夢を実現していくというのは、なかなか大変なことでした。自分が好きでやりたいと思ったことでも、必ずつらいことはあるんです。それは皆さんが好きで入ったクラブ活動でも、今日はクラブ活動、疲れたから止めたいとか、好きな科目でも、時々分からないことにぶち当たって、これじゃあ難しくてできないやと思ったりすることもあります。それと同じです。でも、それが本当に自分がやりたいことだと、同じような夢を持っている人と仲間になり、一緒につき進んでやっていくこともできるのです。私の場合、医者になる夢を持ったこと、そして宇宙に行きたいと思ったこと、そういうことを中心にいろんな人と知り合うことができました。それが今振り返ってみると、ものすごく良い自分の宝物になっています。ぜひみんなも何でも良いのです。宇宙飛行士だけじゃなくて、先生になりたい人もいるでしょうし、絵を描きたい、歌を歌いたい、あるいは電車を運転したい、お花屋さんになりたい、いろんな人がいると思います。自分で何かやりたい、そんなことがあったら、時間がかかるかもしれないけれども、夢を持ち続けて頑張ってください。
 ちょうど今日は、小学校、中学校、高校の皆さんがいらっしゃるので、私がいつも自分に言い聞かせているアメリカの素敵な言葉を紹介したいと思います。それは“If you can dream it, you can do it.”という言葉です。どういうことかというと、もし夢を持つ、あるいは目標を持つことができたら、その夢は自分で実現できるんだということです。
 一番大事なことは自分の持っている可能性を、そして、自分を信じることです。自分は自分が信じなかったら誰も信じてくれないから。そして、自分を大事にし、同時に自分の周りの人たちを大事にすることです。それで一生懸命頑張って自分がやりたいと思ったことがあったら、ぜひその夢に向かって進んでください。
 本当にみなさん今日はありがとうございました。これが私の去年の宇宙飛行、そして宇宙での仕事でした。
 どうも本当にありがとうございました。


編集部:向井さんの素晴らしいお話の後、会場から沢山の元気な質問がありました。そのうちから二つを紹介します。

★質問者 広島大学附属三原小学校六年生の坂田菜奈さん
 私は宇宙飛行士という人類の未来をかけた仕事をされている向井千秋さんを見て、とても素敵だなあ、すごいなあと思っています。それで、私も向井さんと同じように他の人たちがやらないような、とてもやりがいのある仕事をしたいと思っています。これから、私たちがどのようなことを大切にして、勉強していけば、人々のためになる仕事ができるのでしょうか。ぜひ教えてください。よろしくお願いします。
★向井千秋さん
 そうですね。素晴らしい質問ですね。私も考えなきゃいけないですね。
 私は、仕事は何でもいいと思う。人間って一人で生きていけないでしょう。だから社会の中で、みんなが力を合わせた良い意味での歯車にならなきゃいけないと思います。チームワークを大切にし、そして、そのシステムの中で、その歯車が無くなってしまったら、その機械が動かない、どんなに小さな歯車でもいい、そんな自分しかできないようなものがないかなあということを、いつも考えると良いと思います。もう少し具体的に言うと、次の四つをぜひ考えてもらえると良いと思います。
 一つは、自分の得意科目、自分の良いところを持つこと。
 二つ目は、人間って一人で生きているわけじゃないから、一人では一つのことしかできないけれども、二人だったら三つできるかもしれない、三人集まったら五つできるかもしれない。みんなが集まったらものすごく大きなことができる。だからチームワーク、友達と仲良くやる、そういうことを身に付けること。これは日本の人だけじゃなくて、いろんな国際社会の中、いろんな国の人たちと一緒に仕事をする上で、とても大事だと思う。 
 三つ目が言葉。やっぱり人間って、自分の意志を伝えなければいけないでしょう。相手が何をして欲しいのか、どんなことを自分がやればいいのか、そういうことをちゃんと理解しなければいけない。だからそのためには、日本語をきちんと勉強することはもちろん大切だし、できれば英語だとか、ドイツ語だとか、何でもいい、いろんな国の人たちと話し、意志が通じるように勉強すること。
 四つ目は健康。これは、別に運動選手になるくらい元気になりなさいとか、そういうのじゃなく。勉強も運動もして、体をいつも健康にする。そうすると、自分が本当にやりたい時につらいことがあっても頑張れるから。だから、今学校でやっている自分の今のその瞬間を大事に生きることです。できる事をやる。それが十年先、二十年先につながっていくと思います。
★質問者
 小さい時はみんな夢を持っているけど、大人になって夢をかなえている人は本当に少ないと思います。自分の夢をかなえている数少ない大人の中に向井さんも入っていると思います。その夢をかなえた向井さんは、これから、夢をかなえた後の自分をどうしようと思っていますか。
★向井千秋さん
 そうですね。これも難しい質問です。
 だけどね、夢って、山登りと同じで、頂上に登るとまた新しい頂上が見えるでしょう。
 それと同じで、夢って、かなえたらもう夢じゃなくなるわけじゃなく、それから先にまた違う夢とか、希望とかが生まれてきます。例えば、今の私の次の夢は、三回目の飛行にぜひ行きたいということです。
 大切なことは、本当に自分がその夢がかなうのだと思って信じていたら、それを大事にすることです。例えば、医者になっていろんな人を助けられたらいいなあと思って、本当に医者になれたのは、十四年後の二十四才の時でした。そして、三十二才の時に宇宙飛行士になりたいと思って、宇宙飛行士の訓練を始めたのは三十四才の時で、実際に宇宙を飛べたのは四十三才の時でした。だから、九年間ぐらいかかっているのです。だから夢って、多分ずーっとあきらめないで、何とかその夢を十年後にはかなえたいと願い、そのために、毎日、今できることを一生懸命やる。私はそれで、自分の夢というのは、必ずかなうと思います。だからぜひみなさんも頑張ってください。

会場からたくさんの元気な質問がありました
 質問の後に、東広島市立向陽中学校三年生の土肥正承さんから、お礼の言葉が贈られ、原田学長より名誉博士の称号が向井さんに授与されました。残念ながら、紙面の関係で、本稿では向井さんの講演のほんの一部しか御紹介できませんでしたが、全文をホームページ(http://www.bur.hiroshima-u.ac.jp/~koho/new/mukai.htm)に掲載しておりますのでご覧下さい。
プロフィール        
(むかい ちあき)
☆宇宙開発事業団(NASDA)
 宇宙環境利用システム本部 宇宙環境利用推進部
 有人宇宙活動推進室 搭乗部員
☆1952年5月6日群馬県館林市生まれ
☆1977年3月慶應義塾大学医学部卒業。1988年同大学博士号取得。
☆1977〜1987年慶應義塾大学医学部外科学教室勤務。1978年静岡県清水市立病院外科,1979年済生会神奈川県病院外科,1982年済生会宇都宮病院心臓血管外科にて勤務。
☆慶應義塾大学外科教室の助手として心臓血管外科の臨床及び研究に従事していた85年8月に,宇宙開発事業団より第1次材料実験(「ふわっと'92」,米国航空宇宙局(NASA)ミッション名「スペースラブ−J」)のペイロードスペシャリスト(PS:搭乗科学技術者)として毛利衛,土井隆雄とともに選定される。
☆1994年7月8日〜23日,第2次国際微小重力実験室(IML-2)計画のPSとしてスペースシャトルに搭乗。
☆NASDAの科学宇宙飛行士として,1987年6月〜1988年12月,NASAジョンソン宇宙センターの宇宙生物医学研究室にて心臓血管生理学の研究に従事。また,1992年から現在まで,ベイラー大学(米国ヒューストン)非常勤講師,慶應義塾大学医学部外科学客員講師を勤めている。
☆1998年4月に打ち上げられたSTS−90/ニューロラブ計画では地上よりバックアップPSとしてミッションを支援し,同年10月には,STS−95ミッションにNASAのジョン・グレン宇宙飛行士らとともにPSとして搭乗。微小重力環境下での生命科学及び宇宙医学などの分野の実験をした。


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