東海村と広島
文写真・ 瀧 本 泰 生(Takimoto, Yasuo)
医学部附属病院内科
(原爆放射能医学研究所)
あなたは原爆について何を知っていますか。世界で最初に原爆が投下された地、広島の大学に学んでいて、原爆のことをどれだけ知っていますか。こう問われたとき、何人が胸をはって答えることができるだろうか。原爆は風化しつつある過去のできごと。チェルノブイリ原発事故なんて、遠い国での話…。平成十一年九月三十日午前十時三十五分、茨城県東海村のウラン燃料加工会社で、ウラニウム臨界事故が発生した。我が国の原子力安全神話がいとも簡単に崩壊した瞬間である。晴天の霹靂。自分を含めたほとんどの日本人は、こんな思いを抱いたのではないだろうか。
十月一日、広島大学原爆放射能医学研究所(通称、原医研)で、鎌田七男教授を団長とする六名の医療支援チームが急きょ編成され、翌日東海村に派遣された。行きの車中、周辺住民に対し、どのような対応が必要であろうか悩んでいたところ、団長の「原爆入市被爆者を念頭において、一人一人の行動を詳細に記録するように」の一言で、明確な方針を持つことができた。物理線量が不明な時点では、高線量を浴びた事故当時者は別として、個々の行動記録が、将来、個人の被曝線量を決定し、生物学的線量(バイオドシメトリー)測定を含む健康管理対策の基盤になることは、原爆被爆者の診療を通じ、我々が経験してきたところである。この時、車中で団長自ら作成した個人の行動記録表は、茨城県の原子力安全対策課に提出され、後日、これを基にして、近距離住民の聞き取り調査が実施されることが決定した。
翌十月三日、我々は、日立保健所において、住民の相談や被曝線量測定に参加した。妊婦や、乳幼児の両親は言うに及ばず、全く影響がないと思われる遠距離の住民も非常に強い不安を訴えていた。我々が広島から来たことを知っただけでも安堵の表情を見せる住民がおられ、広島の果たす役割の大きさを痛感した。残念なことに、当時、事故現場周辺の物理線量に関する公式な情報はなく、個人のおおよその被曝線量を基にした対応が不可能であったことが悔やまれる。放射線は見えないだけに、余計な不安を住民に与えており、完全でなくとも、そのときどきに応じた情報公開が必要ではないだろうか。地元新聞に24Naや131I、137Csが検出されたと散発的に報道されると、我々医師ですら、いままでの対応で良かったのかと不安になるぐらいだから…。また、東海村周辺では、事故当日の夕方、雨が降ったことも住民を不安にした。原爆では、大量の放射性物質を含む「黒い雨」が広島西部に降った。今回の事故では幸いにも爆発等はおこっておらず、微量の放射性物質しか空中に飛散しなかったと思われるが、当時の天気、風向、風力や、雨にぬれた時間、その後着替えや入浴をしたかどうかの情報も重要であることを再認識した。
今回の事故は、非常に危険な物質ウランを扱いながら、あってはならない惰性と緊張感のゆるみがもたらした人災である。しかし、一旦事故が起こってみると、行政機関はこの会社の存在や業務内容を十分に把握していなかったことが明らかとなった。また東海村には原子力関連の施設が数多くあるにもかかわらず、近隣住民や救急隊に対して放射線に関する教育はなされていなかった。我々原医研も、長年白血病などの被爆後障害の研究に携わってきたが、特に若い研究者において、被爆直後の対応に関する知識が不足したり、原爆被爆者への意識が薄らいでいたことは否めない。これらのことを真摯に反省し、対応していくことが今後の重要な課題である。今回の事故は、今後あってはならないが、しかし万一事故が起こってしまった場合、原医研が迅速な対応ができる備えをしてこそ、多数の原爆犠牲者への真の供養になるのではあるまいか。我々は、今日ですら、原爆被爆者から多くのことを学んでいる。
日立保健所で健康診断を行う原医研のスタッフ
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住民の被爆線量を測定中の原医研のスタッフ
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