「国際の森」記念植樹式 |
祝 留学生受入れ 700人突破 |
カーテンコール、鳴りやまない拍手(前列中央蝶々夫人役の松永美三子助教授と、ピンカートン役の原田学長) |
事務局長対談 「蝶々夫人」の最終公演終了の十四日夕刻、本学廣瀬事務局長と祝祭管弦楽団にチェロ奏者として参加された山口大学高石事務局長との対談が行われた。 廣瀬:公演を終えられた御感想は。 高石:まず、参加させていただいた原田学長に御礼申し上げます。非常にいい経験をすることができ、楽しく弾けました。 廣瀬:管弦楽団という立場から、今回の公演で一番気を遣われたのは。 高石:オペラは初めてだったので、伴奏の仕方を随分学びました。もう一つは、教育学部の学生諸君は随分とよく弾くので、そこまでに到達するのが大変でした。オペラのような大きな作品をうまくまとめ上げるのは、一に指揮者の手腕だと思います。今回、いい指揮者を呼んで来られたから非常にうまく仕上がったと思います。 廣瀬:芸術系学部を持たない本学が今回の公演を実施できたことに誇りを持っていますが、同じ国立大学の事務局長として、どう評価されますか。 高石:これは希有なことです。芸大はともかく、音楽専攻を持たない大学で、これだけのことができるのは驚くべきことです。 廣瀬:我々も自信を持って広島大学ここにありと感激しております。これを機に、隣同士の大学ですから、何かに付け、連携を深めて、この多難な時期を乗り切っていかなければと思います。 本日はありがとうございました。
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日本経済新聞(十一月二十三日)「文化往来」 教員と学生健闘、広島大の「蝶々夫人」 広島大学が先ごろ発足五十周年記念にプッチーニの「蝶々夫人」を二日間上演した。音楽学部を持たない総合大学が自前でグランドオペラを演奏する試みだったが、作品の持ち味を素直に引き出し、意外な成功をおさめた。 教育学部、学校教育学部の二学部に教員として勤める演奏家が主なキャストを演じた。だが、合唱団と五十周年記念祝祭管弦楽団には工学部や法学部など他学部の学生も目立った。耳鼻科学の国際的権威で学長の原田康夫まで、イタリア留学中に解剖学とともに声楽を学んだ経験を発揮。テノールとしては高齢の六十八歳ながらピンカートン役を両日とも歌った。 その原田が文部省との太いパイプを生かし、演出に新国立劇場オペラ研修所講師の十川稔、指揮に文化庁オペラ研修所元講師の宮松重紀を招いたことも、成功の大きな要因といえる。宮松は学生中心のオーケストラを丹念に指導、プッチーニのスコア(総譜)が持つ旋律の流れと音の重層性の両面をち密に再現した。主役のソプラノは初日が広大助教授の松永美三子、二日目が東京二期会から客演した腰越満美。「それぞれが個性を生かし二つの違うバタフライ像を創造できた」と宮松は言う。 ヤマドリやヤクシデ、役人などのわき役に現役の学生を起用したことも記念上演の趣旨にはふさわしい。広大では近々、「東広島市の本部キャンパス内にオペラも上演できるホールを建設し、学内での音楽活動に弾みをつける」(原田学長)としている。 |
中国新聞(夕刊)(十一月三十日)「アンコール」 感動呼んだ総合の妙 広島大学創立五十周年記念事業のプッチーニ作曲歌劇「蝶々夫人」全二幕の公演が行われた。 国立大学の独立法人化や学長主導による大学改革が話題となる昨今、医学者の原田康夫学長が自ら主役のアメリカ海軍士官ピンカートン(テノール)を演じ、広島大学教育系二学部の音楽科教官と学生を中心にオペラ公演を行うことは他に類を見ないというだけでなく、記念事業としても象徴的で意義深いものである。 筆者は、十三日の公演を視聴した。演出の十川稔と指揮の宮松重紀が展開するドラマトゥルギー(劇作法)が圧巻だった。オーケストラや合唱団を含め出演者の演技や演奏、舞台や照明の細部にまでその具現を見ることができた。そして、その演出と指揮に対する共感が、スタッフそれぞれの力量を支える高いテンションとなり、オペラ全体を説得力のある感動的なものにしていた。 プッチーニが書いたスコアの確実な譜読みとその表現。その音楽的表出のために、演出上全ての意匠は用意されていた。 舞台は、無駄を省き簡素で抽象への傾斜が強い。だが、そこには周到な設計がある。履物で区別される居住空間の仕切りに、この悲劇の要因である登場人物の生活習慣や世界観の相違と対比が象徴的に展開されていたし、照明はドラマの時間的経過や展開と不可分に精緻であった。 また、二十世紀初頭の衣装や大道具・小道具では徹底した具象の世界を求め、抽象と具象の両極の対照を際立たせていた。そのような対比の妙は、一幕と二幕における蝶々さん(松永美三子)の芸妓と母親としての性格作りに、蝶々さんとスズキ(小玉妙)、ピンカートンと領事シャープレス(奥田誠)、ゴロー(枝川一也)とヤマドリ(藤井雄介)をはじめ演出の至るところに読み取ることができた。 スタッフ全ての共感が創り上げた《総合の妙》を訴えた好演である。 (井上一清・エリザベト音楽大学長) |
週刊読売(十二月五日) NEWS WAVE 耳鼻科権威は"オペラ歌手" 少年の夢実現、広島大学長 オペラに魅せられ、自ら舞台に立ちたいがために、耳鼻咽喉科の医師を目指した大学学長が、大学創立50周年を記念して、イタリア歌劇「蝶々夫人」のピンカートンに挑戦した。 広島大学の原田康夫学長、68歳。今月の13、14の両日、広島市内のホールで朗々とした歌声を披露し、「68歳の舞台はギネスブック入りだ」と胸を張った。 その原田学長を支えたのは同大付属幼稚園児が演じる子役から蝶々夫人役に至るまでの広島大ファミリー。大学のオーケストラ、合唱団も総出で晴れの舞台を盛り上げた。 大役を無事こなした原田学長は、平衡神経科学分野のノーベル賞ともいわれる「バラニー・ゴールドメダル」を受賞した世界的な医学者。 65年に北イタリアのパヴイア大学へ留学、その時、ミラノのベルディ音楽院で研鑽を積み、イタリア民謡、歌曲など幅広いレパートリーを持つ。広島交響楽団とも共演したほか、CDを世に出している玄人はだしの「オペラ学長」である。 またひとつ夢を実現させ、満足そうな原田学長が話した。「カメラ、バイオリン、声楽、電子顕微鏡との出合いが僕の人生を決めた」 彼の波乱に富んだ人生は、旧制広島一中時代の、学友との生死を分けた被爆体験から始まった。たまたま担任教師の決断で、「運命の日」1945年8月6日、広島市内での作業が休みとなり、被爆を免れた。だが、登校していた下級生は全員死んだ。 その後の原田少年は海軍将校からもらった外国製カメラで、被爆後の市街地や母校一中の再建の様子などを撮影して回ったり、ズルチンを自分で作って実家の薬局で売ったり、部品を集めてラジオを組み立てるなど、何事にも貪欲だった。 「カメラとの出合いでレンズの向こうの世界に魅かれるようになった。組み立てラジオを、前から欲しかった顕微鏡と物々交換した。これがきっかけで、後の研究を支えた電子顕微鏡の世界が切り開かれた」 音楽との出合いも、こうした焼け跡体験にさかのぼる。闇市で見つけた2枚のオペラの赤盤(真ん中に赤いラベルが張ってあるレコード)がきっかけだった。 原田学長は「その1枚がスウェーデンの歌手が歌う『この冷たい手(「ラ・ボエーム」から)』。体中に電流が走る思いで、いつか自分で歌うのだ と心に誓った」 と、終戦直後の混乱の中で思い描いた遠い日々を振り返る。 広島大学では医学を志したが、どうしてもオペラが忘れられなかった。そこで「歌ったり聴いたり、オペラにどこかで関係する臨床医になろうと思って」耳鼻咽喉科医師の道を選んだ。学位は咽頭の機能に関する研究、その後、内耳研究に入り、発声研究も続けた。 学長の激務をこなしながら現役のテノール歌手として生き永らえるには、人知れぬ苦労もある。就寝中のノドの粘膜の乾燥予防のため唇にバンソウコウを張ったり、お湯に浸したコンニャクスポンジを歯茎に差し込むなど耳鼻科医師ならではの配慮もした。体調を整え、顔を細くするため4キロの減量も達成した。 「歌うことで、腹筋も使い全身運動にもなり、仕事のストレス解消にもなる」 オペラ人生は学長の激務を支える原動力でもある。 (編集委員・高木規矩郎)
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