第56回中国文化賞



 中国地方の文化・学術・教育の分野で優れた業績をあげた人たちをたたえる,「第56回中国文化賞(中国新聞社主催)」を,本学関係では3名の方が受賞された。
 受賞者は,広島女子大学長の今永清二本学名誉教授,医学部長の松浦雄一郎教授及び原爆放射能医学研究所の鎌田七男教授である。


未知なるイスラムの道に向かって
文 今 永 清 二(Imanaga, Seiji)
 広島女子大学長・広島大学名誉教授

 広島市立大学長(前広島大学長)田中隆莊先生の御推薦をいただき、原田康夫広島大学長や竹下虎之助前広島県知事の御支持で、第五十六回中国文化賞を拝受いたしました。身に余る光栄であり、感慨を新たにしている次第であります。

継続できたイスラム現地調査 
 広島大学を停年退官後、私は新設の広島市立大学国際学部に職を得て、ここでも文部省科学研究費の交付を受け、平成七年から三年間にわたり東北タイ・ラオス・カンボジア、つまり東南アジア大陸部の大河メコン流域のチャム系及びパキスタン系のムスリム共同体の現地調査を実施することができました。実に幸運だったと言えます。
 カンボジアやラオスのチャム人の父祖の地は現在のベトナム中・南部、西暦二世紀末に成立した「林邑国」の地ですが、調査研究の結果、このチャンパ及びカンボジアとスマトラのパレンバン、グレシクなど東部ジャワとを結んで九〜十六世紀頃、「イスラム・トライアングル・ネットワーク」が形成され、イスラム化が進んでいったことに確信がもてるようになりました。
 私が学んだ広島大学文学部の東洋史教室の特色は、中国史及び東南アジア史の研究にありましたが、私自身は東南アジア史の杉本直治郎、伊東隆夫両教授を初め諸先生の学風の中で育ちつつも空白のイスラム研究に注目し、しかしイスラム研究は中国・東南アジアをフィールドとして勉強する方法をとりました。そして本格的なイスラム研究の基礎となる、ムスリム共同体の実態調査を行うことを心がけてきました。この間広島大学、広島市立大学、インドネシアのアイルランガ大学、タイのシーナカリンウイロート大学などの共同研究者の方々とご一緒に仕事をさせていただきましたので、今回の受賞は広島の国際的イスラム研究に対する賞であるとも言えましょう。
 このような想いをこめて心から有難く、感謝しながら授賞式に臨んだところであります。

苦しくも楽しかった現地調査
 現地調査にはいろいろと工夫が必要です。民族や言語、また文化や風俗などの異なるイスラム世界での調査ですから、まずムスリム共同体の中に身を置きイスラムの空気を吸うことで、現地調査の目的は半ばは達せられると私は考えています。モスクを訪れ、集まってくる人々との挨拶や会話から調査は始まります。イスラム教と言えば「男女隔離」を想像される方が多いかと思いますが、東南アジアのモスクには男性も女性も、大人も子供も集まってきます。女性も皆がベールを着用しているわけではありません。もちろん礼拝のとき、モスク内部をカーテンで仕切って女性だけの礼拝の場を設けることはありますが。そしてイマムら宗教三役を中心に、話の花が咲くわけです。
 イスラム教徒が少数者であるタイやカンボジアでは、私は毎朝五時に起きて直ぐ朝市に出かけました。朝市には山の幸、海の幸、川の幸が所狭しとならべられていますが、私は肉屋さんを探します。『コーラン』の豚肉不食の戒律を遵守するムスリムのために、若しこの地域にムスリムが住んでいれば、鶏や羊の肉などを売る肉屋があるはずです。かくして新月と星のデザインの看板を見つけた時の喜びは格別です。
 そしてイスラム教徒の住んでいる村や町、時には川の中の船のモスクの存在などを確認し、朝食後そこを訪ねていくのです。統計資料などの整っていない東南アジアでは、このようにしてムスリムの所在を調べなければなりません。その後はインシャーラー、すなわち「神の思召し」という次第です。

二十一世紀の課題イスラム
 新世紀最大の課題は、イスラムの問題だとよく言われます。イスラムの政教分離の問題、所謂イスラム原理主義や過激派のことが話題になりますが、やはりイスラム教に対する理解なしにはその展望は開かれないと思われます。聖典『コーラン』と聖伝集『ハディース』を根源とするタウヒード(神の唯一性)の信仰が、広大な世界の各地に受容され土地の文化と習合して多様多彩な地域文化、「灼熱のイスラム」と「寛容のイスラム」の織りなすイスラム世界が広がるのです。
 私はこのイスラムの多様性と統一性の関係を、「イスラム・コンパス説」と呼ぶことにしました。イスラムの軸足はタウヒードで不動、もう一つの足で自由に大小様々なイスラムの円が描かれていくのです。
 今日、アジアの多様なイスラム世界から広島大学にも多くの留学生が学んでいます。またイスラム世界との学術文化交流は益々深まっていくことと思います。イスラムとの対話を欠かすことなく、母校広島大学がさらなる発展を遂げていくよう期待しております。

   






中国文化賞をいただいて思い出すこと
文 松 浦 雄一郎(Matsuura, Yuichiro)
 医学部教授・医学部長

先達の後を仲間とともに追い 
 原田康夫広島大学長のご推薦をいただき、中国新聞表彰理由にも記されておりますように、心臓外科・人工心臓の発展に寄与したとのことで、第五十六回中国文化賞を頂くこととなりましたが、この領域は一人でなせるものではなく、進むべき道を付けていただいた先輩方、日夜をわかたずバトンタッチをしながら併走していただいた教室員、かっての県立広島病院の仲間たちとともに頂くべきものと思っています。

心臓血管外科、そして人工心臓
 小生が医療機器や人工臓器に、それは人工腎臓でありましたが、初めて遭遇したのは胸部心臓血管外科研修を目指し、一九六二年恩師故上村教授が主宰されていた広島大学医学部第一外科講座に大学院生として、通い始めて間もない時でありました。三年後、南カロライナ医科大学胸部外科教室へ膜型人工肺、肺サーファクタント、さらには拍動下心臓保存の研究に留学させていただきましたが、それ以来小生にとって、人工臓器が研究テーマの一つとなっています。身体の一部が広範囲に、かつ重篤に障害を受けると、薬物や修復的治療では救命は叶わず、代用臓器、つまり生体臓器ないし人工臓器による生体機能支援が必要となります。人工臓器の多くは、生命を左右する病態に関わる機器で、脈管絡みのものであり、ことに心臓血管外科での人工臓器の最たる物は人工心臓であります。一九六七年頃既に私たちは、生体心臓移植にもチャレンジしていましたが、当時は脳死者からの臓器提供ではなく、心臓死者からの臓器提供を前提とした研究でありました。保存八時間以内ならば、実験動物の移植心の八五%は立派に再拍動を呈しておりました。一方、人工心臓となりますと、どんなサイズでも常時利用可能ということから、私たちは生体心臓移植と人工心臓は車の両輪と捉え、人工心臓についても生体心臓移植に平行して基礎的研究を行ってまいりました。
 初期、つまり一九六七年頃、人工心臓設計に当たっては、機器の耐久性に主眼をおき、可動、摩擦パーツのない空気駆動ポペット弁制御人工心臓、次いで、流体素子制御人工心臓を試作しました。次いで、駆動装置の安定性など考慮し、空気駆動ソレノイド弁制御人工心臓に移行し、さらに小型化完全植え込み型を目指しリニアパルスモータ駆動人工心臓、ブラシレスDCモーター駆動プッシャープレート型人工心臓へと機器のグレードを上げていきました。それにても完全植え込み型としては、サイズに難有りとのことで、ブラシレスDCモーター駆動遊星ローラー式プッシャープレート型人工心臓へと変身しております。一方、血液循環に必ずしも拍動は不要との見解もあることから、一層の小型化を計る目的で、ブラシレスDCモーター内蔵偏心ドラム型人工心臓を次世代型人工心臓として試作、機能テスト中であります。

県立広島病院時代
 県立広島病院には、一九七二年から一九八六年まで長きにわたりお世話になりましたが、その期間は、主に心臓外科の臨床を中心にした生活で、一週の内四日ないし五日は病棟に泊まり込み、患者さん、患者さんの家族と喜び、悲しみを分かち合う日々を送りました。そのあたりを心臓外科発展に寄与させていただいたと評価されたのかも知れません。
 今回、この伝統ある中国文化賞を頂いたわけですが、私めには、これを機に一層の努力をとの叱咤激励を頂いたとも解し、心を引き締めております。
 末筆になりましたが、本学の益々の発展をお祈りし、挨拶に代えさせていただきます

   






中国文化賞を受賞して
文 鎌 田 七 男(Kamada, Nanao)
 原爆放射能医学研究所教授

 このたび原爆被爆者白血病に関する学術的貢献に対して栄えある中国文化賞を頂戴しました。感謝の気持でいっぱいです。勿論、このような賞は一人の努力でとれるものではありません。受賞にあたって、この研究の背景について述べてみたいと思います

原爆被爆者の現状 
 昭和三十年代には、電車に乗るとケロイドを持つ被爆者の方が少なからず見られましたが、二十年前頃からほとんどそのようなことはありません。また、昭和五十年頃に医学部生八十人に、両親または祖父母で被曝している人がいるかどうか尋ねると、十数人の該当者がみられました。最近では、数人の学生がそれに該当する状況であります。
 このように原爆被爆者の存在は一般の人の中では次第に影を薄くしているところがあります。しかし、被爆者の現状をみてみると、被爆者の実数は以前の約半数に減ってきてはいるものの(現在、広島市に約九万七千人)、平均年令六十七才と高令化し、病気がちで、入院ないし長期臥床している人が三十%を越えています。
 また、癌に関していうと、乳がんを克服した後、大腸がんが新たに出てきたとか、胃癌の手術十年後に髄膜腫が出てきたなどと、二つ目、三つ目の癌が被爆者、とくに高線量(一Sv以上)被爆者に見られるようになってきました。

原爆被爆者白血病の現状
   原爆被爆後四年目頃より白血病が目立ちはじめ、著明な増加を示した六年から七年目をピークに徐々に減少しています。白血病には急性と慢性の白血病がありますが、慢性の骨髄性白血病は一九九○年代(被曝四十五年)にはほとんど発生していませんが、急性の骨髄性白血病は一九九○年代に入っても一般人口の中にみられる白血病発生率より有意に高い状態が、とくに高線量被爆者に続いています。
 原医研では一九六二年より白血病患者の染色体分析を開始しました(ヒトの染色体分析方法が初めて報告されたのが一九六○年)。これまでに一万七千余名の染色体解析を行っています。このうち、被爆者白血病の約六百名を含む約五三○○名余の白血病患者の解析を終了しています。
 染色体分析と同時に被爆者白血病症例は勿論のこと、珍しい型の白血病について遺伝子解析を逐次行って、今後の新しい遺伝子解析法開発時に備えて初診時の細胞がマイナス八○℃の冷凍庫ないしマイナス一八○℃の液体窒素容器に保管されています。白血病病型、染色体核型、細胞保存の状態をきちんとコンピューターに整理しており、各種データの存在は日本一です。今後の活用を期待しています。

広島の科学者の務め
 広島は平和を希求する都市ですが、これは過去の原爆被曝というにがい経験から来ているものであります。この広島・長崎にしか無いにがい経験の中味を直視し、それを他の地域の人に知らしめる義務があります。このためには広島・長崎の地にいる者が、そのにがい経験の結末をしっかりと追求しておく必要があります。ある意味では、それは広島・長崎の科学者の務めであるといっても過言ではないでしょう。
 今後、長期的視野に立った広範囲かつ総括的な研究戦略が必要となってきています。

多謝
(おわりの言葉に代えて)

 一見健康に見える原爆被爆者および病気を持つようになった原爆被爆者をみつめて三十八年があっという間に過ぎてしまいました。これまでに指導していただいた多くの先輩、日夜労を共にしてきた共同研究者、すばらしい技術で支援して下さった多くの研究助手、そして快くご協力いただいた原爆被爆者、これらの方々の一人一人に御礼を申し上げます。

研修スタッフ:インドネシア留学生が学位取得後、帰国時のさよならパーティー(1999年3月)(筆者前列右から3人目)

 

 

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