五十年史編集室だより(8) 


 原爆死没者慰霊行事委員会資料 

五十年史編集専門委員 宇 吹   暁
  

委員会のあゆみ
 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会は、一九七二年三月十八日、学長を委員長として発足、そのメンバーは、部局長、本部各部長、同窓会代表など約一〇〇名におよんでいた。広島大学原爆死没者追悼之碑の建立(七四年八月)、『生死の火 広島大学原爆被災誌』(七五年)・『同 学術編』(七七年)を刊行するとともに、毎年八月六日に「追悼之碑」前で挙行される追悼式に向けて、原爆死没者名簿の整備・追加に協力してきた。しかし、委員会は、九二年に廃止され、二十年間の地道な活動の幕を閉じた。


資料の概要
 この委員会の資料が、一九九八年、五十年史編集室に移管された。その量は、書架に並べると三メートルを越える。これらは、本学の前身校の被災実態とともに、総合大学として出発した本学の原爆被害への取り組みを示す貴重な資料群である。
 資料群には、委員会の議事録を中心とした文書綴十四冊が含まれている。これにより、発足以降一九八七年度までの委員会活動の内容を把握することができる。
 最も古い文書は、委員会の発足前の一九七一年十一月十二日に開催された「原爆慰霊碑打会せ会」の「議事メモ」であるが、これによれば、会開催の趣旨は「原爆投下という歴史的事実に対するモニュメントとして、慰霊碑を建設することは、故人に対する慰霊とともに、研究・教育の上で、特に広島大学として、歴史的事件への意識を明らかにすることも重要であろう」と説明されている。
 原爆被災直後の公文書も多数集められた。「八月六日空襲後ノ当校ノ執リシ措置ノ大要」(コピー)は、広島師範学校長が文部大臣に宛てた一九四五年九月十五日付の報告書である。同年十一月三十日に広島市宇品町の千暁寺で営まれた広島文理科大学・広島高等師範学校の慰霊祭に関する一件書類を含む『戦災死亡者ニ関スル書類[綴]』も発掘された。


貴重な諸先輩の証言
 慰霊行事委員会は、一九七三年八月に、「原爆時在職教職員ならびに在籍学生・生徒・児童に関する被爆状況調査票」を配布した。翌年四月十二日現在のまとめによれば、在籍者人員七七一二人、発送不能九五八人、発送件数六七五四人、転居先不明戻七五九人、回答数二一四三人である。回答数は、在籍者人員の二十八パーセント、発送件数の三十二パーセントと決して多くはない。しかし、回収された調査票のほとんどには、簡潔ながら被爆当時の様子が生々しく書き込まれている。
 委員会に寄せられた未公刊の日記・被爆体験手記類のほとんどは、『生死の火』に収録された。しかし、活字に起こされたものと原資料とでは、伝わる事実の内容はおのずと異なる。また、『裕子の霊に捧ぐ』(一九四六年七月刊、B6判、十九頁)のように未収録で一般に知られていない資料もあった。これは、当時の広島文理大事務局長が、比治山高等女学校(比治山女子中学・高等学校の前身)の引率教師として広島城内の師団司令部で被爆し二週間後に死亡した娘の追悼のためにと刊行した私家版である。


資料の今後
 以上のような簡単な紹介だけでも、この資料の持つ重要性は、理解していただけるのではないかと思う。問題は、これを、今後どう生かすかである。
 委員会が行ったアンケート調査には、被爆資料の所蔵情報が多数寄せられた。これをまとめた「被爆に関する資料一覧表」(一五四人から寄せられた一八八件の資料)には、日記・手記・罹災証明書・原爆直後の広島を写した写真などとともに、被爆時の学生服上着・被爆時腕章(血のついたもの)・焼けたズボン・巻きゲートル・鉄かぶとなどの物品資料も記載されている。これらの中には、なお関係者の間に秘蔵されている資料が存在しているのではなかろうか。もし、そうであれば、文書資料と併せて広島大学原爆資料館を開設することが考えられないか。
 五十年史との関連では、前身校の歴史をどう扱うかに関わる。取り上げる時期を、新制広島大学発足以後に限定する場合にも、多くの同窓生とともに進めてきたこの委員会のあゆみを欠落させることはできないだろう。
(平成十二年二月十四日)



 写真は学章の制定により作成された職員バッジ。直径16o、地は銀色で大学の二文字が金色。裏面には「広島大学職員之章」という文字と共に、通し番号が刻印されている。
 鈴木兵二名誉教授より提供いただいた。





 大学史の散歩道 
  広島大学学章の制定

 大学を象徴する学章を制定しようとする話が具体化したのは昭和25年のことだった。開学式記念事業のひとつとして,広島大学の教職員・学生であることを表示するためのバッジの作成が企画された。10月末に「広島大学バッヂ懸賞募集要領」が発表され,募集にともない教職員および学生からなる審査委員会が設けられた。このとき70点の応募があったが入選作品はなかった。
 入選作が決定したのは,それから5年後の昭和30年10月に行われた第3回募集の時だった。109点の応募作品のうち上図の8点が予選を通過し,入選1点(1)佳作2点(2,3)が選ばれた。この入選作品に若干の修正が加えられ,昭和31年1月20日に学章が制定された。  1は学章の原型となった中野幹也氏(工学部学生)の入選作品。「フェニックスを持って広大を代表としアレンジした。その葉を和の型,円で囲み,大学の文字Hiroshimaで広大を示した」と説明が付された。
 応募者が付けた図の説明は興味深い。2「中央の大学の文字は旧制よりの伝統を物語る意味で古い型の侭で残し,外を広の図案化したもので囲った」。3「広島大学の象徴とも言うべきフェニックスを学習の最上手段である書籍の形で表したもので左右に各七枚ずつの小葉は七学部を表す」など。他の図も三角形で広島市のデルタを表すなどそれぞれ工夫されていた。現在新たに学章が募集されたと仮定したら、どのような図案が集まるのでしょうか。      
(小宮山道夫)
 
50年史編集室ホームページ http://www.ipc.hiroshima-u.ac.jp/~nenshi50/

業務日誌抄録

10・22 福山美術館にて森戸関係資料借用。
  中国新聞社東広島支局長来室。
10・29 小林尭教授(総合科学部)・体育会幹事役員来室し、同窓会連合会大会スライドの打合せ。
11・2 編集室所蔵写真借用のためNHK広島放送局記者来室。五日夕刻放送のニュース番組で使用される。
11・4 広島大学創立五十周年記念講演会、写真撮影。
  企画展「森戸辰男とその時代」(十二日まで中央図書館ロビーにて開催)、写真撮影
  編集室所蔵写真借用のため東広島市タウン誌プレスネット記者来室。十三日付同紙に掲載される。
11・5 『広島大学の50年』刊行。
  創立五十周年記念式典・祝賀会・記念植樹・写真撮影
  広島大学同窓会連合会大会において編集室作成のスライドを上映。
11・6  オペラ「蝶々夫人」東広島講演、写真撮影
11・7 「カモン!フェスティバル」(体育会・音美連等学生との協力イベント)写真撮影。
11・10 第八回ペスタロッチー教育賞表彰式、写真撮影。
11・11 借用資料返却のための発送開始。
11・12 広島大学創立五十周年記念総合科学部主催ブレインサイエンスシンポジウム「脳を科学する」、写真撮影。
11・13 オペラ「蝶々夫人」広島講演、写真撮影(二日間)
11・19 福山美術館、広島市役所へ借用資料返却。
11・20 第五回学教祭、写真撮影。
11・24 編集室所蔵写真借用のため産経新聞記者来室、翌月六日付同紙に掲載される。
12・1 推薦・特別選抜入学試験、写真撮影。
12・3 第十二回五十年史編集幹事会
12・10 第四回五十年史編集専門委員会。
  第七回研究会(大学教育研究センターと共催)。
   報告・・・塚原修一氏(国立教育研究所)
        中野実氏(東京大学史史料室)
        羽田貴史氏(大教センター)
12・15 各学部で開催した創立五十周年記念事業関係資料収集のため、部局等三十三カ所に寄贈依頼文書を発送
12・16 経済学部椿康和氏より『経済学部学生便覧』他、計九十六点の資料を受贈。




〈連絡先〉50年史編集室 電話 0824(24)6050 FAX 0824(24)6049
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