工 学 部


語り継ぐ義務がある

工学部長 松村 昌信


 広島大学工学部を卒業すると、社団法人「広島工業会」の会員になる資格が得られます。すなわち、広島工業会は工学部の同窓会です。工学部の前身の広島高等工業学校の第一回卒業生(大正十二年三月)を筆頭に会員数は約二三、五〇〇名、本部を東広島キャンパスの北隣、広大前交番の真向いにある緑屋根の広島工業会西条会館に置き、全国の各地に六十一の支部があります。毎年五月末の土曜日に総会が開かれますが、その前日の金曜日には会長や各地の支部長、大学内外の理事が参列して物故会員慰霊式が行われます。
 一昨年のその日は少し暑いぐらいの好天でした。式が終わっても参列者は石材を積み上げた大きな工学部慰霊碑(昭和五十七年千田町キャンパスから他の石碑とともにB棟西側へ移設)の周辺を三々五々散策していましたが、その傍にある小さな石碑のところで片島三朗名誉会員(機械科昭和二十三年卒)がいつものややかん高い声で、しかし何気なく話し始めました。
 「ほら、これが例の御大典記念樹の碑ですよ」「片島先生、例のって何ですか」「うん、前にも話したことがあると思うんだけど、原爆が投下されたとき、僕ら機械科の一年生は製図室で講義を受けていた。その木造校舎が猛烈な爆風で一回大きく揺れて倒壊したんだが、それと同時に僕は気を失ったらしい。気が付いたら芝生の上に仰向けに寝かされていて、青い空をバックに記念樹の松の枝が見えた。同級の槙尾君が僕を残骸の下から引っ張り出して運んでくれたんだ」
 私は、木っ端や粉塵がもうもうと上る中を、その年の四月に知り合ったばかりの級友を背負って安全な場所を必死に捜す一年生の姿を想像したとたん、喉の奥がグッと硬くなって声が出なくなりました。暫くたって、何度も瞬きして涙を抑え、やっと言いました。「そのお話、私は初めて伺いました・・・・今の一年生にも聞かせたいですね」
 これが片島先生の記事「工学部界隈」が「広島工業会誌」に連載されることになった経緯(同誌平成十年八月第百二十号参照)です。「広島大学五原則」の第一条は「平和を希求する精神」です。ですから、我々にはこの話を語り継いでいく義務があると思います。

左から角田広報委員、杉野先生、松村工学部長、筒井さん


 

誕生一万日

機械設計工学講座 杉野 直規


 卒業、修了、おめでとうごさいます。
 皆さんは、これから社会に出て様々な苦労や困難に直面すると思いますが、自分を見失わず周りをしっかり見据えて乗り越えてください。
 ところで私は毎朝、その日のバイオリズムをチェックするのが日課となっています。その時に、生まれてから何日たっているかも分かります。つい先日、誕生一万日を迎えました。生まれて一万日、これはいったい長いのか短いのか。単純に八十歳まで生きたとして人生は三万日弱、三分の一をすでに生きてしまったわけです。
 皆さんが卒業して誕生一万日を迎えるのは、二十七歳の誕生日の五カ月後といったところです。これから社会に出て生活していく中で、たまには人生の時間軸を変えて誕生一万日を目標に暮らしてみてはいかがでしょうか?
 一日一日が大切なものになると思います。

 

皆さん

工学研究科博士課程前期 筒井 浩二


 皆さん、ご卒業おめでとうございます。どうですか?学生生活は楽しかったでしょうか?愚問でしょうね。では、ご卒業された現在の心境など…。きっと皆さん、友人や学生生活との別れを惜しみつつも、これからの新しい生活に不安と期待でいっぱい…といったところでしょう。定番ですね。ああ、朝起きるのつらそうだな…とか、でも給料が入ったらアレしてコレして…いやー、うらやましいですね。所詮出て行く方々は、自分の生活の変化にいっぱいいっぱいで、別れを惜しむ気持ちなんて、友人ならまだしも後輩との分なんてわずかなもんなんでしょう。そのへんがなんかずるい気がします。そのころ残った者たちは、しばらくは、しんみりと思い出話にふけり、そしてこう思わずにはいられないのですから。「ああ、さびしくなったな…」と。

 



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