開かれた学問(82)

 深海底から南極へ 

文・ 長 沼   毅(Naganuma, Takeshi)
生物生産学部助教授

 フロンティアとは「最先端」という意味でよく使われますが、「辺境」という意味もありますね。私は、地球生物圏のフロンティア(辺境)に生きるものに興味を持ち、深海生物の調査を行ってきました。太陽光の届かない暗黒の世界、そこでは光合成による生物生産はなく、もっぱら海洋表層からのおこぼれに頼って生きていくしかありません。しかし、深海底には地球内部から熱と化学物質(水素、硫化水素など)が湧き出す場所(熱水噴出孔)があり、それを利用した異質な生態系ができあがっています。光合成に依存した「太陽を食べる生態系」と、深海底で脈脈と生き延びてきた「地球を食べる生態系」があるということです。しかし、最近になって、もっと異質な生態系のあることが分かってきました。

 



熱水噴出孔の下の生物圏

 熱水噴出孔は海底面のニキビのようなもので、地球内部から熱と物質が噴き出すところです。噴出する高温熱水(しばしば三〇〇℃を超える)を潜水船「しんかい二〇〇〇」で採取して調べたところ、たくさんの微生物細胞が観察されました(写真1)。その密度は一ミリリットルあたり十万から百万にも達していました。周囲海水はもっと低密度でしたので、これらの微生物は周囲海水からの混入ではなく熱水中に存在していたと考えて良さそうです。
 しかし、三〇〇℃を超える高温で微生物は生きていけるのでしょうか? 今まで知られている最高生育温度は一一三℃ですから、熱水中に観察された微生物は高温熱水そのものではなく、他のどこかで繁殖していたものの一部が熱水噴出に巻き込まれたのだと考えるのが妥当でしょう。では、熱水中の微生物はそれまでどこで繁殖していたのでしょうか?
 熱水噴出孔がある海底の岩盤は亀裂が多く、岩石内部にも意外なほど空隙があります。大西洋の真ん中を南北に走る巨大海底山脈─大西洋中央海嶺には、世界最大の熱水噴出孔(TAG熱水マウンド、写真2)がありますが、ここの深度二〇メートルの岩石では空隙率が一五%にも達します。岩石圏といえども、水と空間と必要な化学物質(水素、硫化水素など)があれば、微生物の生態系が広がっているはず、TAGマウンドの下はまさにそういう場所でした。

写真1)伊豆・小笠原弧の水曜海山(水深一三四七)から噴出する熱水中に観察された微生物の蛍光顕微鏡写真。アクリジンオレンジで蛍光染色した。

(写真2)大西洋中央海嶺のTAG熱水マウンド(水深三六四〇)。ロシア正教の教会堂に似たチムニー(煙突)が林立する場所はクレムリン・サイトと呼ばれている。



好塩性の微生物

 私たちは潜水船「しんかい六五〇〇」でTAGマウンドから噴き出す熱水と岩石を採取し、そこから微生物を培養しました。熱水噴出孔の内壁はパイライトという鉱物で金色に輝いています。このパイライトの上に、微生物が群れるように住んでいました(写真3)。海底下の微生物圏への期待大です。
 培養のターゲットにしたのはハロモナスという好塩菌です。この微生物は塩分がほとんどゼロから塩分二〇%という高塩分まで生育できます。海水塩分が約三%ですから、どれだけ辛いか想像できるでしょう。熱水噴出孔の深部では高温に熱せられた地下水(亀裂の多い岩盤に浸み込んだ海水)が気液分離し、その結果、低塩分水と高塩分水ができます。私たちはこの海底下の高塩分環境に適応した微生物(好塩菌)を狙って、TAGマウンドの直上海水からは検出できなかった好塩菌ハロモナスを培養することに成功しました。

(写真3)大西洋中央海嶺のTAG熱水マウンド(水深三六四〇)でつくられたパイライト(A)の表面に群がる微生物(B)。《撮影:核燃料サイクル開発機構》



南極の微生物に近縁?

 TAGマウンドから培養した好塩菌はハロモナス・バリアビリス(略称ハロバリ)と同種か近縁種でした。実はハロバリには亜種のようなものがあって、遺伝子解析をしたところ、TAG菌はなんと南極菌に近縁、亜々種のような関係であることが分かりました。TAGマウンドと南極では、一万キロメートルの距離以上に生息環境が違いすぎます。これは一体どういうことなのか? 私はぜひ自分の手で南極のハロバリを捕まえたいと思いました。
 チャンスは意外に早く訪れました。イタリア│日本の南極共同調査への参加が認められたのです。調査目的は「コケ類を中心とした南極陸上生態系の調査」でしたが、文部省の書類には「南極域における生物地理学的多様性の研究」と書いてありましたので拡大解釈してハロバリ採取を心中決意しました。もちろんコケ生態調査もやりましたが、こちらは同行日本人の増沢武弘・静岡大学教授が中心でした。


南極での調査

 増沢先生と私の日本人二名を含む多国籍調査隊はニュージーランドのクライストチャーチを出港し、「吠える(南緯)四〇度、叫ぶ五〇度、狂う六〇度」の海域を乗り越え、南極圏(南緯六六・五度以南)に突入しました。この辺りは海も穏やかで、流氷そして氷山が見え始めます。だんだん短くなっていた夜もとうとう白夜になりました。
 氷山見物にも飽きた頃、南極大陸を視認しました(写真4)。はじめて目にする「白い大陸」の研ぎ澄まされた純白には、思わず背筋を正しました。私たちが滞在したのはイタリアの南極基地(テラノバベイ基地、略称TNB、写真5)、ニュージーランドのほぼ真南のロス海に面した南緯七四度の位置にあります。昭和基地が南緯六九度ですから、五度ほど南になります。ここで昭和基地周辺の植物(コケ)生態との相違・類似を調べるのが主目的でした。
 コケ調査にはヘリコプターで移動しました。TNB周辺では夏期は雪氷の一部が融解し、水たまりや小川ができます。そういう場所は決まっているようで、幾星霜も経たであろう立派なコケ群落が発達しています(写真6)。コケ群落の調査をしていると、私たちが何をしているのか訝しいのでしょう、アデリーペンギンが見物に来ます。見物だけならまだしも、せっかくセットした温度計で遊ぶものですから、データを取りそこなったこともありました。

(写真4)ロス海に面する南極大陸ハレット岬(南緯72度15分)

(写真5)イタリア南極基地(テラノバベイ基地)。積雪の少ない露岩域に設営されている。約80人が起居する。

(写真6)テラノバベイ基地付近のエドモンソン・ポイントに発達するコケ群落。夏季の気温は0 ℃を上回ることもある。マーカーの割り箸は10 cm間隔。



ハロモナス・バリアビリスの謎は深まる

 コケ調査をしながら、私はせっせとハロバリ培養用のサンプルを採取しました。意外に思われるかも知れませんが、南極はけっこう高塩分環境が多いのです。水という水はほとんど固体(氷)で、液体の水に乏しい乾燥した大地、それが南極です。土壌のほとんど発達していない地面のあちこちから塩が析出し、かなり高塩分の池もありました。
 夢のような南極での日々は終わりましたが、それが夢でなかった証拠に私の手許には南極ハロバリがいます。この南極TNBハロバリと大西洋TAGハロバリの遺伝子を比べてみると、両者は兄弟と言ってもよいくらい近縁であることが分かりました。恐ろしいのは研究室内でのハロバリ汚染(TNB菌にTAG菌が混入するなど)ですが、両者の生育特性が全く異なることからその恐れはなくなりました。となると、TNB菌とTAG菌の近縁関係はどのように説明できるのでしょう?


地球生物圏で最強の微生物?

 地球は「水の惑星」であると同時に「塩の惑星」でもあります。塩は生物に必須ですが過剰でも困ります。地球生物における大問題の一つは塩との付き合い方でしょう。その点、塩分ほとんどゼロから飽和近くまで生育できるハロモナスは地球を代表する生物と言えそうです。その中でもとりわけ、TAG熱水マウンドとTNB南極基地という極端に異なる環境から採取・培養されたハロモナス・バリアビリスは地球最強と呼ぶことができるかもしれません。現在、世界各地の岩塩を集め、そこからハロモナスを培養しているところです。岩塩はタイムカプセルのような役割があるので、地球史的な観点からもハロモナスの特異性を明らかにしていきたいと思っています。



 プロフィール

☆一九八九年筑波大学大学院修了後、海洋科学技術センター研究員。
☆一九九四年から広島大学生物生産学部助教授
☆一九九五年から海洋科学技術センター客員研究員(兼任)
☆著書『深海生物学への招待』、訳書『生物海洋学入門』




 
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