開かれた学問(83)

 化学物質の胎児への影響 

文・ 安 田 峯 生(Yasuda, Mineo)
医学部解剖学第一講座教授

 



サリドマイドの悲劇

 みなさんはサリドマイドという薬品をご存知でしょう。わが国では一九五八年から発売された鎮静剤で、つわりを軽くするのに効くというので、妊娠初期の女性が服用したところ、その胎児に四肢や耳の異常をおこした、悪名高いものです。日本では約千人の被害児が出たということですが、一九六二年にこの問題が一般に知られるようになり、サリドマイドは製造発売が停止されました。その頃インターンをしていた私は、医者になって患者さんの治療をするのもいいけれども、医薬品が胎児を傷つけるような悲劇を防ぐこともやりがいのあることだと考え、先天異常研究の道に入りました。


先天異常の頻度とその原因

 先天異常とは生まれる前に運命づけられたあらゆる異常をいいます。口腔の天井に裂け目が入って、鼻腔とつながってしまう口蓋裂のような形の異常や、知恵遅れのような機能の異常があります。先天異常は一般の人々が考えているほどまれなものではなく、生まれた時に外から見てわかる形の異常だけでも百人に一人の割合でおこっています。口蓋裂は日本人で多い異常の一つで、ほぼ千出産に一人の割合です。
原因としては、全体の約二〜三割では遺伝が主な役割を演じています。サリドマイドの印象が強いために、異常の原因として多いのは妊娠中に母体に入った化学物質ではないかと思う人が少なくありませんが、先天異常のなかで化学物質が主な原因となっているのはせいぜい一%くらいでしょう。そうはいっても、医薬品や食品添加物などで胎児に障害がおこることは防がなければなりません。そこで、実験動物を用いて化学物質の胎児に及ぼす影響が調べられているのです。これを発生毒性試験といいます。


発生毒性試験

 試験にはラットやウサギがよく使われます。私たちの実験室ではマウスを多く用いています。方法の一例を図1に示します。オスとメスの動物を一緒にすると交尾しますが、マウスではオスの分泌物がメスの腟の中で固まります。これが腟栓で、これが見つかると、妊娠のスタートです。胎児の脳や心臓や手足などが形作られる時期を狙って、問題となる化学物質を妊娠母体に与えます。胎児が十分に発育したところで、母体から胎児を取り出して、異常の有無を調べます。図では胎児の口蓋や腎臓を観察する例が示されていますが、実際の試験では胎児の外表、内臓、骨格はもちろん、分娩させた児の生後発育、行動や成熟後の生殖能力などさまざまな機能についても検査されます。食品添加物や農薬のように、微量が長い間に体内に入る可能性のある物質については、動物の成長期からずっと暴露を続け、妊娠させ、子や孫の世代での異常の有無を調べる多世代繁殖試験が行われています。

図1 マウスでの化学物質の胎児への影響を調べる実験方法の例



軽い異常も発生毒性の警戒警報

 私たちの実験室では抗てんかん薬やビタミンAのような医薬品、ダイオキシンやメトキシ酢酸(プラスチック可塑剤の代謝産物)のような環境汚染物質など、さまざまな化学物質の胎児、新生児への影響を調べ、その毒性のおこるメカニズムを調べています。例えば、ダイオキシンは妊娠マウスに投与すると胎児に口蓋裂をおこしますが(図2右)、細胞の中にあるダイオキシンと結合する受容体タンパク質の遺伝子を破壊しておいたマウスでは、多量のダイオキシンを与えても口蓋裂はおこらず、ダイオキシンの発生毒性作用はダイオキシン受容体により仲介されることを世界で初めて証明しました。このような実験を重ねている間に、口蓋裂をおこす物質を、妊娠マウスに少量与えた時に、口蓋ヒダのパターンが乱れることに気付きました。口蓋ヒダというのは口蓋の粘膜に横に走る隆起で、正常では左右対称にきちんとしたパターンを示します(図2左)。ところが、口蓋裂をおこす量の十分の一程度の口蓋裂誘発化学物質に暴露された母体からの胎児には、口蓋ヒダが交叉するように見える(図2中)など、いろいろな型の異常が見られました。私たちは、口蓋ヒダ異常以外にも、肋骨の数が一本ふえるとか、マウスの足の裏にある歩行パッドとよばれる隆起のパターンの乱れとか、種々の軽い形の変化が化学物質の発生毒性を知らせる警戒警報として役に立つことを報告しました。このことは多数の発生毒性試験で利用されています。
図2

妊娠12日にダイオキシン40 g/kgを経口投与された母体からのマウス胎児の口蓋裂

妊娠12日にメトキシ酢酸0.2 ml/kgを経口投与された母体からのマウス胎児の口蓋ヒダ異常(矢印)

正常なマウス胎児の口蓋



鋭い観察眼の大切さ

 軽い異常(小奇形)はヒトの先天異常の原因究明にも役立ってきました。一九七十年代の初めにアメリカのシアトル近郊にある先住民保護地区で頭や目がわずかに小さい、鼻が低い、顎の発育が悪い、掌紋(いわゆる手相)が少しおかしい子供が集団発生していることにケン・ジョーンズという小児科医が気付き、その地区ではアルコール中毒が蔓延していることから、子供の異常の原因が妊娠中の母体のアルコール摂取によることを突き止めました。胎児性アルコール症候群とよばれるこの異常は、形の異常は軽くても、知的障害を伴うことが多く、社会的には大きな問題です。このような観察力の鋭い医師が先天異常の原因究明と予防に重要なはたらきをした例はいくつもあります。広島大学に学ぶみなさんが、どんな専門領域であれ、旺盛な知的好奇心をもち、わずかな変化にも気付く観察力を養って、社会に貢献されることを期待しています。


 プロフィール

(やすだ みねお)
☆一九三七年七月八日生まれ
☆一九六七年京都大学医学部医学科卒業
☆一九七七年広島大学医学部教授
☆専門分野:先天異常学





 
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