開かれた学問(87)


パキスタンから学ぶこと


文・吉田 修
( Yoshida, Osamu )
法学部政治講座教授



 一九九八年にインドとパキスタンが相次いで核実験を行った時、当時の橋本首相は「カシミール問題の調停を安保理で訴えなければ」と嘆きましたが、これは逆に印パ間の紛争と調停の歴史に関する認識の不足を示すものだとも言えます。日本人にとって、南アジアはかくも遠い地域なのでしょうか。
 その南アジアのパキスタンに、米国での同時テロ以来注目が集まっています。今回は、そのパキスタンについて述べたいと思います。


植民地の辺境地帯

 パキスタンは、インドがイギリスから独立するとき、イスラム教徒多住地域が分かれて生まれた国です。分かれたと言っても、植民地の最も豊かな地域がインドとして独立したのに対し、パキスタンとなったのは、その辺境地帯でした。中でも現パキスタンは、カイバル峠を中心に、古来からのインド侵略ルートを含んでおり、侵略者を一気にインド心臓部であるガンガ(ガンジス)平原へ攻め込ませないためにアフガニスタンから切り取った地域でした。これは、敵の手に落ちるかもしれないところですから、植民者も投資などはしません。それゆえに、植民地下でインドの心臓部がいびつながらも相当の経済発展を遂げ、独立インドの社会的基盤を提供したのに比べ、パキスタンは最初から大きなハンディを負っていました。
 この国の政治指導者の多くが独立時に現在のインドから逃れて来た人たちであったということも、問題を複雑にしました。彼らは国内に政治基盤を持っていないため、民主主義制度を機能させようとしませんでした。しかし、自身のもろさを知っているこの国は、同時に部分的に「分権的」でもありました。彼らは北西辺境州のうち、植民地時代にイギリス軍が手を焼いたアフガニスタン国境付近を「連邦直轄部族地域FATA」と名付け、幹線道路周辺を除き軍を撤退させて、実質的には部族の伝統的自治に委ねてしまったのです。この一帯からアフガニスタンにかけて住んでいるのが、タリバーンを生んだ民族であるパシュトゥーン人です。

地図 カイバル峠のパキスタン兵
写真(右):カイバル峠のパキスタン兵


二つのパシュトゥーン人が拓く地平

 イギリスは戦略的要請からパシュトゥーン人居住地域を分断しました(デュアランド・ライン)が、その国境を引き継いだパキスタンは、長い間アフガニスタンと緊張関係にありました。民族の統一を願うパシュトゥーン人も、パキスタン政府を悩まし続けました。こうした事情を変えたのが、ソ連によるアフガニスタン侵攻です。西側世界による反ソ援助の最前線となったパキスタンには、多くのアフガン系パシュトゥーン人難民が流れ込み、パキスタンのパシュトゥーン人と接触するようになったのです。
 彼らは、もちろん同朋の苦境を見過ごしませんでした。しかし、同時に、三十年以上にわたって国境の両側に分かれた民族は、もはや互いが「同じである」と言うには隔たりが大きくなりすぎており、このことは逆にパキスタン系パシュトゥーン人に、パキスタン人アイデンティティを強めるきっかけとなったとも言われています。
 国家崩壊の危機が続くパキスタンですが、弱さの自覚ゆえに与えた部族自治が、危機の中で彼らの国家への帰属意識を強化できるとすれば、そう簡単には国家が分解することもないかもしれません。それどころか、国境の向こうの同一民族との交流関係を通じて、これまでインドを中心とした閉鎖系的存在と考えられることが多かった南アジアを、西アジアや中央アジアにもつながる開放系的存在として捉え直す可能性すら秘めています。

パシュトゥーン人の姉弟
写真:パシュトゥーン人の姉弟


南アジアと私たちの接点

 パキスタンの状況は、国内少数民族の処遇という点で、示唆に富んでいます。宗教や社会集団の相違や同一性がいかに私たちの目を眩ませるか、それが実はどんな可能性を内包していたのか、日本に住む者が南アジアから学ぶことは、実はたいへん多いのではないでしょうか。


プロフィール

○1983年京都大学法学部卒業
○1987年から1990年までジャワハルラル・ネルー大学(インド)留学
○1990年名古屋大学法学部助手
○1995年広島大学法学部助教授(政治学)
○1998年同大学院国際協力研究科担当(世界秩序講座)
○2001年同法学部教授
○専門分野:国際政治学、南アジア政治外交
○E-mail:oyoshid@hiroshima-u.ac.jp



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