公募された大学歌
広島大学にはフェニックス、学章(学旗)、そして大学歌という三つの象徴がありますが、これらは、本学の創立当時からあったわけではありません。フェニックスが東千田町の旧正門前に植えられたのは昭和二十七年のことで、学章、大学歌、学旗は昭和三十年代前半に相次いで制定されたものです。大学歌を制定する企画は昭和三十年に持ち上がりました。九月二十三日の中国新聞は「歌を忘れた『カナリヤ大学』でいまだに校歌がないとの汚名を頂だいしていた広大では、創立六周年を迎えてこのほど広大大学歌と広大を象徴するバッジを制定することになり、その歌詞とバッジの図案を学生、職員、卒業生から募集することになった」と報じました。
はじめ入賞作には三千円の賞金が予定されていましたが、該当作品が出ず、翌年賞金を一万円に増額して再募集が行われました。昭和三十一年九月までの二度の募集で総計四十四点の作品が集まりました。紙面の都合で作品を引用する訳にはいきませんが、エスペラント語の歌詞あり、雅文調あり、寮歌風のものありと作風は様々で、歌詞には平和、デルタ、フェニックス、原爆といった言葉が多く登場していました。
大学歌の作者たち
作品を審査したのは、森戸辰男学長を委員長とする大学歌審査委員会(委員二十一名)でした。同委員会は集まった作品から三編を入賞候補に選び、その後の選考を小川二郎教授(文学部)、真下三郎助教授(同上)、羽白幸雄教授(教養部)の三名からなる小委員会に一任しました。小委員会は文学部生の山中有人氏の作品を最有力とし、これに修正を加えることで入賞作品としました。この歌詞が昭和三十二年三月十六日の評議会で承認され、大学歌は制定されました。このような手順を経たため、作詞者は個人名ではなく、広島大学選定となっています。一方、大学歌の作曲者は広島大学教育学部音楽科となっています。平成十年に附属福山高等学校を退職した藤川浩氏は、本誌二十九期六号に寄せた文中で、学歌を作曲したのは元N響指揮者で教育学部教授の高田信一氏であると記しています。事務局所蔵文書には、それを直接示す記録はありませんが、作曲の委嘱先を検討した当時の評議会議事録によると、作曲の専門家として高田氏の名前が挙がっています。手続き上作曲は音楽科に委嘱され、実際には高田氏が原曲を制作したのかもしれませんが、真相は未解明です。
曲は昭和三十二年七月までに完成し、十一月五日に広島市公会堂で開催された開学記念演奏会で、音楽科交響楽団および同合唱団によって披露されました。
大学歌のめざすもの
森戸学長は後に自著『広島大学再発足のころ』の中で、「募集された学歌は羽白教授の手が加えられて、あのようなよいものになったのだそうです。簡素で格調の高い文語体のこの学歌は、第一節が『光あり』、二節が『流れあり』、―これは広島市を流れる太田川の※七つの川をさしているのです。―三節が『緑あり』で唄い初められ、それぞれ『真をぞきわめん望みなり』『善きをこそ努めん集いなり』『美しきもの求めん願いなり』で結ばれて、ここに学ぶものの真・善・美を追求する不撓の意欲が表明されております」と解説しました。そして「このようにして、この学旗と学歌とそしてシンボルとしてフェニックスをもつことによって、寄り合い世帯である大学の精神的な一体化を実現してゆく気運を促進したいと念じたのであります」と述懐しています。
昭和三十年代に相次いで制定された象徴たち、その成立の背景には、広島大学と一口に呼ばれながらも、旧制諸学校の「寄り合い世帯」から脱皮できずにいた、現状に対する苦悶が強く働いていたのかも知れません。