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平成14年度(第92回)日本学士院賞を受賞して
文・沼本 克明
( NUMOTO, Katsuaki )
大学院教育学研究科教授
(高山寺蔵『金剛界儀軌』。梵語讃の部分。濁点「:」や節博士が加点されている)
本年度の学士院賞に選ばれ、私自身大変戸惑い驚いています。対象となった業績は先年刊行した『日本漢字音の歴史的研究―體系と表記をめぐって―』(平成九年十二月汲古書院刊、A5版、一二四五頁)です。
私は広島大学大学院で小林芳規先生(本学名誉教授)御指導の下、訓点資料による日本語の歴史的研究を志しました。大学院に入った当初から今日に至るまで、小林先生と、そして御友人であられる築島裕先生(東京大学名誉教授)との御世話によって、高山寺・石山寺・東寺・大原三千院・仁和寺・随心院等の名刹所蔵の数万点に上る良質な多量の訓点資料に接することが出来たのは誠に幸運であったと云うほかありません。訓点資料とは、漢字漢文を日本語に解読―訓読―する行為の結果として存在する全ての資料群を総称したものです。これらの資料群は中国文化を吸収消化するために日本人が残した日本文化形成のあらゆる分野に亘る基礎資料ですが、特に漢文の解読という行為として関わる言語―日本語―の歴史的研究の重要資料であることは云うまでもありません。研究を始めた当時(昭和四十年代前半)、比較的軽視されていた―つまり国語音韻史の極一部分の問題として扱われていた―漢字音につき、その歴史的研究が独自の分野として成り立つのではないかと考え、そういう訓点資料によって研究を始めた訳です。
私の研究は、比較的若い三十代までの研究を纏めた『平安鎌倉時代に於ける日本漢字音に就ての研究』(昭和五十七年三月武蔵野書院刊、A5版、一一九七頁)が一つ有り、これは各寺院の調査で拝見した或程度まとまった訓点資料から日本漢字音の色々な事象を記述した、詰まり「事実の指摘」を行ったものであります。新しい訓点資料を漢字音研究に利用するということが比較的少なかった時代でありましたから、それまで指摘されていなかったような事実が次々と明らかになり、日本漢字音史の見通しが立つことになりました。
今回受賞の対象になりました『日本漢字音の歴史的研究―體系と表記をめぐって―』は、古代日本漢字音に就いての体系と表記に焦点をあてたものです。先の著書は古代日本漢字音に就いての歴史的実態の究明を意図したものであり、今回の著書は、呉音、漢音、新漢音、宋音、唐音の体系はどの様なものとして捉えられるかという体系論を意図したものに、表記論を付け加えたものです。体系論については、呉音に体系無し、漢音は秦音(唐代長安標準語音)体系に一致する、というのが私の現時点での結論です。表記論の問題としては、多岐に亘って居ますが、拗音表記の成立、濁音符の成立、有気音を区別する記号の成立と展開、音楽記譜符号の節博士の導入と展開、半濁音符の成立、促音表記の小書き「ッ」の発生、等を究明しました。これらの記号は全て漢字音(及び梵語音)の研究の場で発生したもので、漸次日本語の表記として整備されていったものであることが明らかになりました。この度の著書で漢字音に就いては一応の見通しが立ったように思います。今後はもう一つの柱となる「日本梵字音史」のテーマが残されて居ります。古代サンスクリット語(梵語)が日本語に与えた大きな影響についてはこの度の著書でも言及してありますが、本格的に独立した歴史を描いてみる必要を感じています。
広大フォーラム34期2号
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