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文・藤本 成明
( FUJIMOTO, Nariaki)
原爆放射線医科学研究所助教授



 数年前にマスコミを賑わせた環境ホルモン問題。その言葉はすっかり定着しました。マスコミの最前線からは引退したこの問題の現状はどうなっているのでしょうか。

■環境ホルモン
 環境ホルモンとは、環境中にある化学物質のうちホルモンに類似した作用をする物質のことです。この語は、井口泰泉(現岡崎国立共同研究機構)らによる造語です。似た語として、英語のenvironmental estrogens (環境女性ホルモン)という言葉は以前から使われていました。より正確な定義を持つ内分泌攪乱物質という語も作られましたが、もともとが曖昧な概念なので環境ホルモンという呼び方の方がいいという考えもあります。ビスフェノールA、ダイオキシンなどがマスコミに特に取りざたされた物質です。この物質の以前まで知られていた毒性との大きな違いは、直接には生物を殺さないような低用量で働き、内分泌系を介した複雑な作用で生殖系などに悪影響を及ぼすことです。
 いま振り返ってみると、この問題はずいぶん以前から少しずつ認知されてきたことがわかります。合成化学物質がホルモン作用を持つこと自体は、一九三〇年代に報告がありました。それを受けて合成ホルモン剤の開発が行われ始めたのもそのころのことです。その合成女性ホルモン剤であるDESという物質が医薬品として使われ、その薬害が明らかになったのは一九六〇年代でした。一方で、ある種の牧草を食べた雌羊が妊娠しなくなり、それが牧草中のイソフラボンのホルモン作用によることが報告されたのは一九四六年のことでした。そして一九八〇年代、北米の五大湖や英国の河川で致死的でない化学物質の汚染にも関わらず多種類の野生動物種で生殖異常が報告され、ホルモン作用によることが疑われるようになり研究が開始されました。これが、一九九〇年代に環境ホルモン問題として認識されて行きます。興味深いことに、この間、かつて公害規制の先進国といわれた日本ではこの問題は全く取り上げられず、騒ぎは一九九六年の環境ホルモンの危険を訴えたコルボーンの『奪われし未来』の出版を待つことになります。私見ですが、これには日本の内分泌研究者と環境科学研究者の威信の低さということも関係していたように思われます。


図1.ラット前立腺での2種類の女性ホルモン受容体量の変化。
多くの環境ホルモンが結合して働くターゲットは女性ホルモン受容体なので、
生物影響を理解するのにその発現量を知ることは重要です。
我々の研究によりその量は発育過程で大きく変化する事がわかりました。
現在その分子的な仕組みを解明しようとしています。
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■何がわかったか。残されている問題は何か。
 ここ数年間の精力的な研究の成果として、(1)測定方法の開発整備により、多くの候補物質の環境中での量が把握されるようになりました。(2)通常のレベルの環境ホルモンでは、成体にはほとんど影響がないことが示されました。また、(3)新規化学物質の毒性試験に、ホルモン作用の有無という項目が加えられたことは重要です。さらに、その研究過程で、内分泌系の分子的な仕掛け(たとえば、我々が研究している発生や成長過程を通じてのホルモン受容体の発現調節の仕組み等)の基礎生物医学研究も飛躍しました。一方、未解決の問題ですが、(1)胎児や新生児の発生異常といった重大な影響については、当初から危惧されながらも未だに十分理解されていませんし、(2)代謝活性化(無害な物質が生体内で代謝されてホルモン作用を持つようになること)についても研究途上です。(3)ヒト健康影響についての疫学的な検討も継続中です(たとえば、まことしやかに報道された男性の精子数が近年減少している点等についても真偽は確定していません)。



図2.甲状腺ホルモン作用物質。化学物質の女性ホルモン以外の作用も注目されるようになってきました。
我々の研究により、難燃剤として使われているTBBPAが甲状腺ホルモン作用を持つことが示されました
(広島大学大学院医歯薬学総合研究科創薬科学講座・北村繁幸助教授との共同研究)。

■リスクがあることを知りながら生きる
 特定の測定法によって、数万種類の物質のホルモン作用を検査するのは比較的簡単なことです。そうすることで、明確なハイリスク物質を避けることは可能でしょうが、ある物質が生態系全体に対して全く無害であると証明することは困難です。工業的に生産されている化学物質だけでも数万種あるといわれており、我々の文明はそれらに依存しています。つまり我々はそれらと生きることを選択しているといえます。そうである以上、そこに潜在的なリスクがあることを認識しながら、絶えず環境に目を配り注意深く生きて行くことこそ唯一の現実的な対処なのではないでしょうか。絶対の安全基準などないという考えは何もいま出てきたものではないですが、環境ホルモンは、それが少ない量で働きまた影響のでる仕組みも非常に複雑であることから、その事実をより鮮鋭に我々に提示したといえます。



プロフィール
1992年 広島大学大学院博士課程修了PhD
同 年 広島大学原爆放射能医学研究所助手
1996年 同助教授
2002年 同原爆放射線医科学研究所助教授
専門分野:分子内分泌学、放射線腫瘍学
E-mail:nfjm@hiroshima-u.ac.jp




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