大学改革の最重要課題
昭和44年に激化した大学紛争を直接的な契機として、広島大学は改革への道を踏みだしました。大学改革委員会とその下に十二の専門委員会を設け、大学の抱える諸問題の検討を始めました。
改革論のなかでも次第に最重要課題へと位置づけられたのがキャンパス問題でした。当時広島大学は校地を県内5市4町の19地区に分散し、紛争以前からもその状態は不適切であると認識されていました。とくに文、教育、政経、理の四つの学部と教養部とを抱える東千田キャンパスの狭隘さは顕著でした。このため分散キャンパスの統合による大学移転が構想されました。
統合移転の構想
広島大学は統合移転構想の中で百万坪の新キャンパスをスローガンとし、昭和四十七年七月、移転候補地として可部、五日市、西条の三カ所を公表しました。各地では誘致運動が展開され、県が独自に西条を適当とする報告書をまとめるなど、候補地の選定をめぐり様々な思惑や憶測が交差しました。このようななか大学は、11月24日の臨時評議会において統合移転の意志があることを正式決定し、移転先の決断を学長に一任しました。
構想から事業へ
飯島宗一学長が移転先を西条と公表したのは翌年2月8日のことでした。飯島学長のこの決断を支えたのは、その前年12月末の一本の電話だったとされています。この時学長のもとに文部省大学学術局長の木田宏氏から、財政投融資を使った用地購入費への充当が可能だとの連絡があったのです。飯島学長は「木田さんの一本の電話は、実に、広島大学統合移転構想を具体的な統合移転事業に進展させた一つの決定的契機をなした」と後に述べています。
西条視察風景(昭和51年3月) 現在の教育学部付近より南方を望む。平地部分には戦後外地からの引揚者による生産組合のブドウ園が広がっていました。 |
長期にわたった移転
左の写真は用地面積がほぼ現在の規模に確定した頃の視察風景です。長靴を履いた職員の姿が当時の状況を象徴しており、上の現在の大学の姿と比べれば隔世の感があります。この後昭和57年に工学部が最初に移転して以来、16年間に及ぶ移転作業が続きました。移転決定から数えれば、実に24年の歳月を費やしたことになります。
移転後の広島大学
移転を終え大学の周辺は変化しました。「喫水不忘掘井人(水を飲むときに井戸を掘った人を忘れてはならない)」との中国の俗諺があります。統合移転事業は学内外の多くの先人たちの労力と時間とを飲み込みました。望むと望まざるとに関わらず、この統合移転の評価を定める鍵を握るのは、現在そして将来このキャンパスに過ごす者たちの姿であると言えるでしょう。
広島大学の歩んだ歴史の真実を伝え、世人の批評を問うことになる『広島大学五十年史』の編纂事業は今も続いています。