未来に乾杯!
 大学院生物圏科学研究科 環境評価論講座
安藤 忠男(あんどう ただお)

 私は過去を振り返るのが苦手です。過去を覗こうとすると挫折とか失敗とか、何か良くないことだけが思い出されてきそうで少し恐いのです。そんな訳で、いつも明るく輝かしい未来だけを思い描いて生きてきました。今でもそうです。退職するのではなく、転職するのだと思っています。現在よりもっと自由に生きるために。
 過去を反省しない人は、成功しないのかも知れません。それでも、目標を目指して今を懸命に生きれば後悔することもない、と思います。そんな生き方をしてきた私に、なおかつ温かく接してくれた多くの学生諸君や同僚、先輩の皆様に心から御礼申し上げます。広島大学での三十四年間、どうもありがとうございました。皆様の、そして広島大学の明るい未来のために乾杯!

クイーンズランド大学での海外生物圏実習に参加した生物生産学部生と私(下門直人君作)

退職にあたって ―多謝―
 総合科学部研究協力係
   井手口 富美子(いでぐち ふみこ)

 いよいよ節目の年を迎え永年お世話になった職場を去るときが来ました。本当に感慨無量です。
 社会人として一歩足を踏み出した記念すべき場所、東千田キャンパスの教養部に出勤した初日のことは今でも鮮明に思い出されます。
 その日から今日まであっという間に過ぎ、その間「大学紛争」により教養部は封鎖され日ごとに職場が変わり仕事もままならない状態でした。
 その後大学改革により教養部は総合科学部へ学部改組、東広島キャンパスへの統合移転等相次ぐめまぐるしい動きの中で、素晴らしい人と出会い、また周りの多くの人に教えられ、助けられながら今日まで勤めてこられましたこと深く感謝しております。
 最後に今再び国立大学法人化という大きな波が打ち寄せております。広島大学の更なる発展を祈念しております。

【部局歴】 分校、教養部、総合科学部

思い出
 歯学部附属病院看護部
   惠飛須 律美(えびす りつみ)

 入職して三十年、今日まで無事に過ごしてきましたのは皆様方のおかげです。心からお礼を申し上げます。月日の経つのは早いものです。十年前の七夕祭で、私が盆踊りを提案したところ、言い出しっぺの私が担当することになり、急きょ、踊りを習いに行きました。当日は練習のかいあって、スタッフの盆踊りの輪に患者さまや病院長をはじめ先生方も加わって盛り上げてくださり、楽しいひと時を過ごすことができました。今思えば些細なことですが、以後、毎年盆踊りの担当をさせていただいたことが一番の思い出となりました。これからは皆様との楽しい思い出を胸に、残りの人生を私なりに精一杯生きていきたいと思います。皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。

【部局歴】 歯学部附属病院

七夕祭りにて(筆者右)

定年退官に当たって
 大学院生物圏科学研究科 分子生命開発学講座
   太田 欽幸(おおた よしゆき)

 六十年安保闘争の最中に「大学」に入り、以来四十数年間の長い間、お世話になりました。この間、いろいろな国の多くの人々と出会うことが出来、いろいろな経験をさせて頂きました。これもひとえに皆様のご支援の賜物と心より感謝致します。
 広島大学のさらなる発展と皆様のご健勝を祈念致します。

福山時代に三次から福山まで歩くローワンに出場(筆者左端)

感謝
 理学部物理科学専攻・学科事務室
   加計 英子(かけ ひでこ)

 四季折々の美しい風景を楽しんできた賀茂台地の広島大学とお別れする日が刻々近づいてまいりました。昭和四十年秋、東千田町の古式ゆかしいレンガ建物である理学部で、大学の仕事の第一歩が始まりました。それ以来組織は変わっていますが、物理教室で仕事を続けさせていただきました。この度無事定年を迎えることができますのも、多くの方々の支えなくしては叶わなかったことと、感謝の気持ちで一杯でございます。
 振りかえれば限りなく思い出がわいてまいります。人々との出会いと思い出が私の宝物であり、現在の私を作っております。皆様からいただいた教えや励ましを心の糧として、これからの人生を歩んでゆきたいと思います。ありがとうございました。

【部局歴】 理学部

京都嵯峨野にて

退職にあたって
 医学部管理課
   加茂 廣幸(かも ひろゆき)

 他人事のように思っていたその日が我が身にも巡ってきました。昭和三十九年二月、夢と希望を胸に広島大学へ就職し、以来三十九年間勤めさせていただきました。
 顧みますと、それぞれの職場で数々の出来事やいろいろな人との出会いを今でも鮮明に思い出します。その中で得た貴重な経験を自分の財産とし、又健康で定年を迎えられることを喜びそして家族に感謝し、浅学非才の私がよく辛抱できたものだと自分自身を誉めてやりたい気持ちです。
 最近、会う人から「三月には定年を迎えるんよねー、いい時に辞めるねー」と必ず後の言葉が加わります。
 今まさに霞地区も新病棟完成、開院、そして本年秋の医病・歯病の統合、事務組織の再編等国立大学法人化を前に数々の大変革真っ直中です。この大きな山を教職員全員が一丸となって乗り越えて更なる発展を祈っております。

【部局歴】 会計課、経理部経理課、同主計課、工学部、医学部、医学部附属病院、施設部、附属図書館、教育学部、経理部経理課、同主計課、庶務部企画調査課、同国際交流課、経理部管財課、同経理課、医学部管理課

中岳にて(筆者後方)

広島大学に感謝
 理学部等大学院学生係
   岸田 公(きしだ いさお)

 昭和四十二年に理論物理学研究所(平成二年京都大学に統合され、廃止)に奉職して十二年、その後学生部に六年、工学部に九年、最後の勤務となった理学部に六年と三十六年間勤務しました。この四部署で大半を勤務し、後半は学生系の仕事に携わり学生の手助けとなるよう務めました。この間おとなしい性格で何の取り柄もない私を育てて下さった先輩・同僚に感謝すると共に、よくぞ今日定年を迎えることができた自分を褒めてやりたい気持ちです。理論研での静かな環境のもとで仕事をし、休憩時間には教官も交えてバレーボール等で心地よい汗を流したこと、また旅行もよくしたこと等懐かしく思い出されます。
 広島大学で勤務できたことを誇りにして、余生を過ごしたいと思います。
 広島大学の益々の御発展を心からお祈り申し上げます。

【部局歴】 理論物理学研究所、厚生課、学校教育学部、工学部、教育学部、厚生課、工学部、理学部

理友会(理学部)の北海道旅行で石原裕次郎に逢えて大喜び

みんなで輝く広大を
 大学院理学研究科確率統計講座
   久保 泉(くぼ いずみ)

 たまたま、NHKの特別番組を見ておりました。そこでは、アメリカの巨大企業、いや陸軍においてすら、今までの中央集権型の組織を見直し、現場に権限を委譲する組織が検討されつつあると言うテーマが取り上げられていました。
 大学の組織は、いままではその逆の個々の教官のアイデアから積み上げて行くいわゆるボトムアップ型の組織でした。現在、国立大学法人化に関連して、トップダウン型の組織に衣替えするように誘導されています。
 このように変革を掲げると、詳しい現状分析よりも、現状とは異なった方向に走り始めることが多いように思われます。
 広島大学長が、何れでもない「水平型」の組織を提唱されているのは、卓見でしょう。しかし、その基本となる構成員一同の「共通の目標設定」と「情報の共有」は、 現実にはなかなか困難です。いま改革に取り組んでいる委員会と構成員の乖離を気遣 っています。

卒業式の日に
(筆者左から2人目)

学生の教育について
 大学院医歯薬学総合研究科 病態情報医科学講座
   小嶋 亨(こじま とおる)

 法医学の主な業務は学生教育、法医学研究および司法解剖などの鑑定です。これらの業務のうち、学生教育が最も重要であると考えました。
 どうしたら学生が講義に出席するか試行錯誤のうえ、必要最低限の項目を選び、毎回レジメを配布することにしました。学生、特に寝ている全ての学生にレジメの一部分を読ませ、解説させ、質問して、講義に学生を参加させました。
 レポートは最も確実な出欠の資料になりますので、講義の終わりに、講義に関連したレポートのテーマを提示し、周囲の学生同士で討論させてレポートを書かせ、それを評価して学生に返却する方法としました。
 レポートを読み、評価することは大変な労力です。その結果、欠席する理由のない学生は百%出席するようになりました。

残された時間の使い方
 医学部附属病院看護部
   児玉 信子(こだま のぶこ)

 今、その名はない「広島大学医学部附属看護学校」を卒業後、広大病院に就職し、育児のため寄り道をしました。看護とは何なんだ!を求めて再び広大に就職し、たくさんの貴重な学びと多くの素晴らしい出会いを頂きました。ありがとうございました。また、苦しみや悲しみとの出会いがありました。ある学者は、もともと人の心には現在の解釈を超えてより深い解釈を生み出すための能力が備わっていると言っています。心は常に古い自分を乗り越えて自分を変えていくようですが、私にはそのような芸当は出来ず一つのことにこだわり、乗り越えられないでいる自分があります。「やり直しの出来ないたった一つの人生をどう生きるか。無常の世の中をどう生きるか」がこれからの課題です。生かされている時間を、好奇心旺盛に前向きに生きていく自分でありたいと考えています。
 新しくなった広大病院のご発展をお祈りいたします。

【部局歴】 医学部附属病院

去るにあたって
 総合科学部保健体育講座
   小村 堯(こむら たかし)

 教養部・総合科学部へと勤務し三十九年、その間学園紛争、学部創設、体育学部創設の準備、大学設置基準の大綱化に伴う改革、統合移転等々、そして今法人化と、印象深い出来事の連続でした。中でも総科の創設が、教養部時代に比べ、内外の環境をとりわけ変化させたのには驚かされました。ただ、尚今も総科は改革の波に揺られています。その揺れが一日も早く終息し、落ち着いた環境のもとで、優秀で多彩な人材を抱える総科が広大の更なる発展の起爆力となることを願って止みません。私の専門である健康スポーツ科学は、学内は元より学外にその活動の場を必要とされるところから、学界も含めてスポーツ界でも存分の活動をさせて頂いた事に感謝しています。又、そうした場で得られた多くの素晴らしい知己も、一生の財産として大切にして行きたいと思っています。
志賀高原でのスポーツ実習
・学生と共に(2002.2)

カエル君と共に
 大学院理学研究科 附属両生類研究施設
   近藤 育志(こんどう やすゆき)

 川村智治郎先生と西岡みどり先生の下で、両生類研究施設の発足以前から、カエル達と共に生活し、飼育に勤しんでいる間に、早四十年余りが矢の如く過ぎ去りました。彼等が内に見せる様々な現象を長年解析してまいりました。まだまだ仕事は尽きませんが、定年ということで、カエル達にサヨナラを告げなければならない時がやってきました。この間、多くの皆様方に大変お世話になりました。篤く御礼申し上げます。また、近々迎える法人化の後も両生類研が、季節感溢れるこの西条の地で、確固として末永く発展することを願っています。
 なお、長年にわたる遠方からの通勤でありましたが、道すがら御一緒下さった方々のお陰を以て、実に楽しく快適に通勤させて頂きました。有難うございました。

先生を囲んだ両生類研スタッフ
(昭和55年)、飼育室前にて
(筆者左から4人目)

心に響くご褒美をありがとう
 大学院教育学研究科 音楽文化教育学講座
   佐藤 紀美子(さとう きみこ)

 先日、卒業生たちと、西条で最後のピアノコンサートを開きました。楽しいコンサートになった――と思っていますが、この区切りのコンサートを終えて、長く勤めた広島大学に思いを寄せてみました。
 昭和四十六年福山分校へ赴任して以来、三十年余りも音楽科にお世話になりました。学生の皆さんとオーケストラで共演したこと、寝食を共にした研修旅行、緊張して挑んだ学生たちのピアノの試験など、鮮明に思い出されます。ほとんどの学生が学んだピアノの演奏は、終わりのない練習の繰り返しですが、ときには宝もののようなご褒美(感動)を与えてくれるものです。同僚の皆さんや多くの学生の皆さんと共に、私も心に響くご褒美を存分に味わうことができました。広大の皆さんに出会えて本当によかったと感謝しています。有り難うございました。

研究室にて

退官のご挨拶
 経済学部経済政策講座
   佐野 進策(さの しんさく)

 昭和四十二年四月、政経学部の助手として赴任以来、私の生活のすべてといっていいほどの広島大学を去る日が近づきました。想い起こせば、大学紛争はじめ、政経学部の法学部と経済学部への分離創設、大学院社会科学研究科博士課程設置、経済学部の東広島キャンパスへの移転、夜間学部(夜間主コース)の東千田キャンパス残置など、先輩同僚の教官・事務官との苦楽の思い出は尽きません。
 恵まれた環境の下で研究できたこと、そして教育面ではとくに昭和四十九年から担当したゼミナール(卒論指導・演習)での多くのすぐれた学生との交わりは、私にとっての大きな宝物になりました。
 今日、大学をめぐる環境が激変しようとしているとき、大学を去るのは心苦しい気がしますが、広島大学がさらに大きく飛躍することを祈ってやみません。

最後のゼミ生とともに

さらば東広島キャンパス
 大学院教育学研究科 附属教育実践総合センター
   白根 福榮(しらね ふくえ)

 広島市からこの地へ移転して八年間、四季の移り変わりを楽しんできました。久しく見なかった田園風景、教育学部のユリノキの花、工学部のアメリカフウの紅葉、ブールバールのケヤキ並木など自然に囲まれ、学園環境としては最高です。国立大学法人化、教員養成系学部・大学の再編と身辺が慌ただしくなっている最中に去り行くことは、心苦しい気がしますが、窮地に臨んでこそ真の実力を発揮できるのではないでしょうか。陰ながら応援しています。写真は、JICA研修生と撮影したものです。自然システム講座では、十年前から、途上国の中等理科教育支援を行っています。百人近い研修生が通り過ぎていきました。彼らは、自国の教育発展に尽力していることでしょう。広大の皆さんも、教育・研究に一層の精進を重ねてください。
JICA研修生と

忙中閑あり
 法学部・経済学部事務部 
   杉下 克洋(すぎした かつひろ)

 在職四十年。学生部に出戻りを繰り返しながら十一学部中八学部を経験することができました。おかげさまで多くの先生・事務官の方々と交流ができ大きな財産となりました。事務官の皆様はもとより先生方とも朝方まで飲み明かしたことがなつかしく思い出されます。この間、大学紛争、研究科の改組、教育職員免許法の大改正や慣れない英語との苦闘等多くの試練が待ち受けておりましたが、幸い、皆様に支えられて無事乗り切ることができました。長い間ありがとうございました。
 最後に、ちょっと気になっておりますのは、最近の職員の皆様方が心身共にゆとりが少なくなったように思えることです。昨今の情勢からしますとやむを得ないことかもしれませんが、ちょっと一息入れて頑張っていただきたいと思います。広島大学の益々の発展を祈念しております。

【部局歴】 教養部、学生課、厚生課、理学部、教育学部、総合科学部、厚生課、学校教育学部、工学部、医学部、学生部留学生課、法学部・経済学部

長崎にて

感  謝
 大学院教育学研究科教育学講座 
   仙波 克也(せんば かつや)

 学生時代には安保闘争、助手時代には大学紛争、今回は国立大学の法人化に向けた大学改革に遭遇しました。激動と喧噪の時代に広島大学に在籍することになったと回顧しています。
 在任中は、自由な学問的雰囲気と恵まれた環境のなかで教育や研究の職務を楽しく遂行させていただき、充実した日々を過ごさせていただきました。特に、大学周辺の自然とともに、鏡山を照らしているひときわ大きな月を眺めながら、図書館の前を家路に向かうのは楽しみでした。
長い間、たいへんお世話になりました。皆様のあたたかいご厚情とご指導に心から改めて深く感謝申しあげますとともに、広島大学の一層の発展を祈念いたします。

1958年度教育学部教育学科入学生の同窓会(2001年3月 於広島市内 筆者3列目右)

退職にあたって
 文学部事務部
   田川 實(たがわ みのる)

 いつの日か、その日は来るであろう、しかし、昨日、今日のことではあるまいと、悠長に構えているうちに、喜怒哀楽の三十八年余が過ぎ去ろうとしています。
 在職中は学生・庶務・会計系とそれぞれの業務に携わり、創業の楽しさ、苦しさ、説得の難しさの貴重な体験をさせていただきました。
 在職中における皆様方の暖かいご支援に感謝し、大過なく仕事を終えることの充実感で一杯です。最後に、国立大学法人化等の荒波を教職員・学生とのチームワークで乗り越えられ、広島大学の更なる躍進を祈念いたします。

【部局歴】 医学部、学生課、教務課、政経学部、工学部、教育学部、歯学部附属病院、原爆放射能医学研究所、理学部、附属学校部、総合科学部、歯学部、附属図書館、原爆放射能医学研究所、文学部

中央コートにて反省会前のテニスメンバー(筆者中列右から2人目)

愛しの広大
 大学院文学研究科言語文化学講座
   田中 逸郎(たなか としろう)

 広島大学に勤務して二十一年、定年退職を目前にしていろいろな思い出が浮かんできます。何よりも嬉しいことは、毎年多くの学生と接しえたことで、特に大学院生とは授業以外でも親しくでき、その彼らが各地の高等教育機関で活躍してくれていることは、まさに「教師冥利」といってよいと思います。今となっては少しばかりですがなつかしい思い出といってもよいことがあります。「大学は冬の時代」と言われて久しいのですが、昨今の大学に関わる様々な情報に接するたびに、大学の将来が私なりに気になるところです。私も管理・運営に携わった時期がありますが、辛い思いをしながらも成果を挙げたのは何よりでした。広島大学の更なる発展を心より念じております。
ありがとう

思いで
 総合科学部会計係
   谷田 義彦(たにだ よしひこ)

 昭和四十二年五月一日付けにて理学部に自動車運転手として採用され三十年以上の年月が経過して、一年の暦の過ぎ去る早さをしみじみと感じる今日この頃です。
 最初に東千田キャンパスの理学部一号館に立ち入ったときに、少し薄暗く天井が高いのに驚いた記憶があります。当時の理学部の工作室には金属工作の岩本さん、ガラス工作の石田さんと大原さん、及び薄片の高橋さんというそうそうたるメンバーが在籍されており、熟練の技をふるっておられました。
 しばらくして、仕事も出来るが遊びも大好き人間のT事務長がおみえになり、それからは理学部事務室の旅行先が温泉地巡りとなり、宴会もそこそこにT事務長を先頭にショー見物に夜の町をはいかいしたのが先日のことのように思い出されます。
 これからは国立大学法人化の荒波が押し寄せますが、皆さんの創意と工夫でより特色のある広島大学として発展されることを祈っております。今日まで色々とありがとうございました。

【部局歴】 理学部、総合科学部

旅先のスペースワールドにて
(筆者左端)

定年を迎えて
 生物生産学部畜産科学講座 
   谷本 一志(たにもと ひとし)

 水畜産学部深安実験牧場立ち退きときまり、御幸農場予定地として開場した昭和三十七年、附属農場職員として、採用となり四十年がたちました。振り返ってみますと、昭和三十八年十二月深安実験牧場と賀茂牧場が御幸農場に移転し、職員全員がそろい一番若かった私が今年定年をむかえ、四十年という過ぎし日々が今でも昨日の様に思いだされます。十七年前再び東広島へ農場が移転し、近代的に機械化された施設で学生さん達との実験や実習などで今日まで無事に勤務出来ましたのも教職員の皆様方や学生方のご指導ご支援をいただいたおかげと、心から深く感謝し厚くお礼申しあげます。最後に広島大学の益々のご発展と皆様方のご健康ご活躍を心よりお祈り申しあげます。

【部局歴】 水畜産学部、生物生産学部

現在の附属農場

思い出すこと、期待すること
 総合科学部ドイツ語講座 
   丹治 信義(たんじ のぶよし)

 広島大学の教養部に赴任してから三十三年の歳月が過ぎましたが、その間にはじつにいろいろなことがありました。教養部が総合科学部に改編されたり、(カープが優勝したり)、地域研究研究科が創設され、これが社会科学研究科に改編されたり、キャンパスが東広島に移転したり…じつにめまぐるしい変化がありました。しかし、いま振り返ってみると、このような組織や機構の変化もさることながら、何よりも鮮明に思い出されるのは、その時々を共にした同僚の先生方や職員の方々のことです。激しい変化に耐えられたのは、あの方々のお陰だったのだ、といま心から感謝しております。
 広島大学はいま更に激しい変化を目前にしていますが、力を合わせてこの難局を乗り越え、充実した研究と教育のできる環境を作り上げて行かれることを期待しています。

Deutsches Literaturarchiv
への途上

日々是好日「至誠・力行・一貫」
 工学部事務部 
   鳥羽 隆憲(とば たかのり)

 広島大学での四十有余年は実に生きてきた期間の三分の二です。昭和三十六年附属図書館を振り出しに、会計系、庶務系と、概ね二年から三年で部局を転々と移動し、はたまた同じ部署に出戻り、また出戻り。三度もお世話になったこともあります。しかし、多くの方々との知己を得たことは宝でした。ある先達の言に「小人閑居して不善を為す」自省、また自省。仕事を楽しくするも苦しくするも心掛け次第と。「秋の蝉、何が嬉しゅうて冬まで生きる」。今暫くは寿命とやらを愉しみに。折々の出会いに、ご指導、ご支援をいただきながら、色々ご迷惑をお掛けしました。ここに厚く御礼申し上げます。法人化によって、さらに評価の高い総合大学へと転身されることを期待し、併せて皆々様が御安寧であられることを衷心からお祈りいたします。

【部局歴】附属図書館、会計課、経理部主計課、同経理課、同主計課、医学部附属病院、庶務部人事課、教養部、総合科学部、教育学部東雲分校、学校教育学部、附属学校部、文学部、医学部附属病院、庶務部庶務課、学校教育学部、工学部、医学部、総務部総務課、工学部

歩いて四国へ行こう(与島にて)
(筆者最前列中央)

雑感
 工学部学校工場係 
   長嶋 光雄(ながしま みつお)

 年月の過ぎるのは早く、もう自分に順番が廻ってきたのかというのが実感です。南千田町と東広島キャンパスとに半分ずつ務め、その間多くの先生、先輩方に御指導を受け、家庭的な雰囲気の中で仕事に励み、休み時間はスポーツに興じたものです。
 昭和五十七年二月に移転が始まりましたが、校内の道路は凸凹で、十センチ位の霜柱を踏みながらの通勤でした。電気、ガス、水道すべてがなく、そんな中にあって、皆が懸命に機械の据え付けや調整をしたこと、また、翌年早々の大雪では、学内に「かまくら」が出現したこと、移転記念運動会や通勤帰りの友との一杯など、振り返れば楽しかった事ばかり思い起こします。
 この度大過なく退職を迎えられるのは、多くの人に助けられたからこそだと深く感謝しています。
 皆様の御健康と御多幸をお祈りしています。

【部局歴】 工学部、工業教員養成所、工学部

由布岳にて

広大生に望む
 大学院工学研究科 知能化生産工学講座
   鳴瀧 則彦(なるたき のりひこ)

 広島大学に三十四年在職し、その間に数多くの卒業生を送り出しました。いろんな個性をもった卒業生が社会人としてそれなりに活躍しているのを知ることは一番の喜びです。企業の重役になった人や工学博士の学位を取って大学等で活躍している人も何人かいてこの人達は出世頭といえるでしょうが、学部に七年や八年も居てようやく卒業にこぎつけた人もいました。これらの人たちのなかでも運動部や文化部の活動に熱中しすぎて留年した人は企業人となってからは意外に(?)がんばっていたりして驚かされます。最近の学生は依頼心が強くて頼りないと評されますが、以前のように大学を卒業すれば希望のところへ就職できるといった時代ではなくなったのですから、十分な自覚をもって勉学に励み、自分を主張できる人になってほしいと思っています。
精密工学会中国四国支部
創立50周年記念祝賀会にて

過ぎし日に
 歯学部総務課庶務係
   仁井 美智子(にい みちこ)

 最近、出会う人に「良い時期に退職されますね」と、よく言われます。昨今のような厳しい状況に置かれている国立大学のこれからのことを考えると、この言葉は本音かも知れないと実感しているこの頃です。医学部産婦人科講座で三十余年研究のお手伝いをさせていただき広島大学の職員としての誇りを感じ、後の八年余りは、講座から事務部に配置換えになり無我夢中で仕事を覚え、まだまだ覚えきれない間にこの日が来てしまいました。この間、多くの人との触れ合い、先輩の方々の励ましとご指導があったことを深く感謝しております。今では、楽しかったことばかりが思い出されます。今、国立大学が法人化という大きな変化を迎えようとしています。今後は広島大学が個性の輝く大学として、よりよい発展をされますよう心よりお祈りいたしております。

【部局歴】 医学部、歯学部

苦しかったけど、楽しかった徒歩の旅
(筆者右から2人目)

高学歴志向の学生に一言!
 医学部臨床看護学講座 
   西亀 正之(にしき まさゆき)

 少子高齢社会の到来と共に社会情勢は大きく変化し、大学の有り様そのものも厳しくなり、学生気質も変わってきました。私が所属した医学部保健学科は、社会のニーズもあり学科の増設・増員と短期大学の四年制化・大学院の設置等高学歴化が急速に進められています。そのため、学部教育終了後社会経験のないまま高学歴を求め大学院に進学し、博士の資格を得、早い時期に教育者・研究者として指導的職務に従事する者もあります。そこで望まれるのは、学部教育の間にしっかり自分の適正にあった領域を見つけ、一度社会に出、何年か実践を積んだうえで再び大学院にかえり、実践から抱いた課題につき高度の学問と研究を身に付け、教育・研究者の道に進んでは如何でしょうか。その方が早道であり、将来において自分に適した分野で存分に社会貢献が出来るのでは?
京都の学会で舞妓さんと

小さな舞台の幕を降ろします
 総合科学部学生係
   西本 隆行(にしもと たかゆき)

 昭和五十九年度事務機械化研修を受講しコンピュータがもつ無限な可能性に感動しました。講師河野登氏の熱意がそこまでにさせたのかもしれません。
 当時の広島大学では事務処理機械化は手作りの時代でした。「他大学に先駆け、より進んだ学生支援を行いたい!」そのモチベーションとポリシーを具現化する一つの手段としてコンピュータを使用してきました。
 今では、当時の汎用機に見劣りのしないパソコンが各自自由に使え、各システムも手作りからパッケージの時代となり、まさに隔世の感があります。
 自作自演の小さな舞台もこのあたりが潮時、幕を降ろします。
 永い間、ありがとうございました。

【部局歴】 学生課、医学部附属病院、医学部、文学部、学校教育学部、厚生課、教務課、厚生課、法学部・経済学部、教育学部、総合科学部

最後の晩餐

総合科学部の没落
 総合科学部社会文化研究講座 
   浜渦 哲雄(はまうず てつお)

 総合科学部没落の要因を経営学のキーワードでまとめ、退職の挨拶とさせていただきます。
 スピードの欠如=今の時代、組織に求められるのは意思決定のスピード。問題先送りのための会議は時間とカネの無駄。選択と集中も必要。
 アウトソーシングの欠如=自分たちに知恵がなければ、コンサルタントを利用する。
 成果主義の欠如=研究と教育の個人成果を評価し、それを昇級、研究費の配分にいかすシステムの確立が必要。悪平等は人を堕落させます。
昇進(採用)基準の欠如=教授・助教授基準の数値化をさぼっているため、トコロテン人事が行われ、特定イデオロギーグループの人事支配がまかり通ります。

ゼミ生とのヒマラヤ・トレッキングの一風景
(筆者左端)

時代は変わり、世代間ギャップは大きく
 総合科学部自然環境研究講座 
   林 七雄(はやし ななお)

 広大に三十八年勤め、先輩・同僚の方々に大変お世話になりました。厚くお礼申し上げます。勤め始めた頃の東千田町のキャンパスは狭く教育・研究には不自由な環境でしたが、先輩・同僚ともども団結して協力するなど、まとまりがありました。
 時が変わり、東広島キャンパスに移って、建物も大きく、スペースも広くなって、『プラトンのアカデメイアの森』を再現したような、恵まれた環境になりました。教育・研究に何不自由もなくなりましたが、人々のつながりが弱くなり、世代間のギャップが大きくなって、教育・研究に支障がでるようになりました。
 広大の真価(進化)が問われる時期になったようです。

研究室一同
(筆者前列左から3人目)

一つの提案
 大学院理学研究科 宇宙・素粒子科学講座 
   平田 道紘(ひらた みちひろ)

 この三月で退職することとなりました。長い間広島大学及び教職員の皆様にお世話になり、心よりお礼を申し上げます。
 平成十六年度より国立大学も法人化されるようになり、大学を取り巻く環境も益々厳しくなっていくことと思います。大学へ入学してくる学生の中には、自分達が進む専門分野に対する基礎的な学力が欠けている学生もいることでしょう。このような学生諸君と顔と顔をつきあわせて、彼等の基礎学力を上げる手伝いができる人が居れば、大学も助かるでしょう。もし退職者がその役をボランティアで行うならば、どうでしょうか。学生諸君はもちろん現役の先生方も助かり、退職者にとっても大変やりがいのあるボランティアということになります。

時の流れ
 医学部医事課中央診療係 
   藤川 桂子(ふじかわ けいこ)

 この度、無事定年を迎える事ができますのは、皆様の御指導の賜物と厚く御礼申し上げます。私は昭和三十六年に広島大学医学部に採用され世紀を越えてその大半を霞キャンパスで勤務しました。退職間近になった今、往時の霞キャンパスの様子が思い出されます。入院棟・外来棟とも赤煉瓦の二階建てで玄関には下駄履きで来院された方用のスリッパが置かれ冬は各待合いに火鉢が置いてありました。周りの空き地には二〜三台の自家用車がポツネンと駐車し構内西沿いは国鉄宇品線が走っていました。外来棟前のグランドでは医学部生達がスポーツを楽しんでいました。
 今年一月には、コンピュータを完備した最新設備の新病棟が開院し、算盤の時代に採用された私が定年退職する事を思いますと長い時の流れを感じます。最後に皆様の御健康と御活躍を祈念致します。

【部局歴】 医学部附属病院、附属学校部、原爆放射能医学研究所、医学部、歯学部、医学部

愛犬りりと一緒に

広島大学を心美しい人々で充たしてほしい
 大学院医歯薬学総合研究科 病態制御医科学講座
   細井 光輝(ほそい みつてる)

 古い書類を片付けていたら大判の少し黄ばんだ原稿用紙が現われました。見るとそれは十七年前の学内通信のためのもので、その後に書いたものはワープロ原稿でしたが、今回三度目はメールで送れとのこと、今昔の感一入です。黄ばんだ原稿を見ているとその当時起こった様々な出来事が思い起こされました。実は先日も、古い机の抽き出しの下から、天網恢恢…ということか、私の文献カードが現われたのです。当時それは研究者にとって重要な財産で、それを隠した人を見抜けなかった私の間抜けさにあきれたことです。
 本文のタイトルは我が家のモットー〈美しい祖国、この美しい祖国をこころうつくしい人々で隅から隅までみたしていかう…〉から引用しました。大学を離れたら、裏切ることのない自然を相手に生きて行こうと思う昨今です。

広島に来て45年、 毎年
見続けた獅子座流星群
 2001.11.19 2:08出現

御礼、そしていよいよの発展を
 大学院文学研究科表象文化学講座
   槇林 滉二(まきばやし こうじ)

 気持ちは若いつもりでいましたが、定年を迎えることになりました。良き、師、先輩、同僚、そして何より素晴らしい学生たちに恵まれての大学生活でした。ただただ感謝と御礼を申し上げます。先日、人を案内しながら学内をゆっくり歩いてみました。紅葉の季節でもあり、学内のいたるところゆったりと大学らしい思惟の空間があるようでした。美しい空間と時間が充ちていました。この世界との別れ、人生の一つの「なかじきり」です。あるいは、一種の「遁世」でもあります。「一言芳談」に「遁世すればとて、日来の有様をことごとしく改むべからず」とあります。これまでの芳醇な生活はもうないのかもしれませんが、さりとて「ことごとしく改」めず、次の生を生きてゆかねばと思っています。
 大きな変革のとき、大学のいよいよの発展を心より心より祈っています。

勉強仲間と

定年を迎えて
 附属学校部皆実附属学校係 
   松尾 勝(まつお まさる)

 昭和三十七年防衛庁職員に採用され、四十二年広島大学へ転任して四十余年間の公務員生活。月日の過ぎるのは早く、去りし日々のことが走馬灯のように駆け巡ります。
 良き先輩に出会い、いろいろと教えを受け、そして良き同僚・後輩の助けを借りて、無事定年を迎えることができた自分は幸せ者と心より思っています。
 これからは、新しい人生の始まり。有り余る時間を有意義に使って、いろいろと思い描いてきたことを実現したいと思っています。
 最後に、皆様方のご健康と広島大学の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。

【部局歴】 歯学部附属病院、歯学部、附属学校部

家族旅行にて(筆者前列左)

広大ヘメッセージ
 大学院工学研究科化学工学講座 
   松村 昌信(まつむら まさのぶ)

 広島大学に在職して三十六年が経ちました。工学部入学時から数えれば四十五年間、附属学校時代も勘定に入れると実に五十年以上も広島大学と栄辱を共にしてきたことになります。栄辱と言っても初めの頃は輝かしい面ばかりで、それを感じるのも本人ではなくむしろ両親などでした。その後、職場となった母校での人間関係が学部を越えて全学へと広がり、それと並行して国の内外に知人が増えてくると、広島大学の光の面も、陰の面も、等しく自分自身のことと感じざるを得なくなりました。一般に人がこれらを心に感じる強さは、在職年数とは無関係であることは充分に承知していますが、反面あまりに永く在職すると、知人は退職後でも一傍観者でいることを許さないでしょう。長年のご厚誼に感謝すると共に、特に今後の広島大学をよろしく、とお願いする次第です。
14年夏、沖縄にて研究室の皆と
(筆者右端)

忘れ難きこと
 大学院教育学研究科 社会認識教育学講座  
   森分 孝治(もりわけ たかはる)

 正門を閉ざす、教室の机と椅子を持ち出して作られたメイズ。ロック・アウトされ、附属小学校で開かれた教官会。市立舟入高等学校体育館での入学試験。晴天下、吉島公園で挙行された入学式。五日市の次五郎荘でもたれた新入生ガイダンス。機動隊導入による大学解放。正門の外に控える機動隊に投石する学生。再封鎖を警戒した、トランシーバーをもっての夜間屋上監視。夜通しの学部長団交と救出。大学会館大ホールでの学長団交。鉄板で防御された本部玄関に、丸太を抱えて突進する黒ヘル集団。教育学部棟正門側壁面に大きく書かれた「大学解体」。そこで問われた「学問の自由」「大学の自治」「大学の批判機能」……。そして、腰の引けていた自分。

 教室団交で私たちを糾弾した学生たちは、その後、どうしているのでしょうか。あれから、三十余年、誰もたずねて来ませんでした。
情報科目の世代間ギャップ
 総合科学部情報行動基礎研究講座
   山縣 敬一(やまがた けいいち)

 情報科目の内容は、現在の社会の動きに連動して変わります。あるとき、受講学生から聞かれたことがあります。「先生の年齢から考えると、先生が勉強していた頃は、今のような状況ではなかったですよね」と。そして、この世代間ギャップを教養的教育、学部教育、大学院にいたるまでの情報関係の教育と研究を実施する中で、乗り越えて来た気がします。情報に関する普遍的な理念は私が多く提供し、新しい情報社会に対処する感覚は、私が若い多くの学生のみなさんから教わりました。私が広島大学に在籍させて頂いた十余年の間にも、世の中の情報環境はすっかり変わり、広島大学の情報環境も大きく発展してきています。この間にお世話になった方々に厚くお礼を申し上げ、そして、広島大学のますますのご発展をお祈り致します。
実験室にて(筆者前列中央)

自然界の多様性を求めて
 大学院医歯薬学総合研究科 創薬科学講座
   山崎 和男(やまさき かずお)

 関東で育った私は中学高校時代には甲虫採集に熱中しました。大学生の時にはワンゲルで山を歩き、一年間の英国留学のあと七一年に当地に赴任して三十二年、人生の半分以上を広島で過ごしました。この間に多くの留学生たちと一緒に東南アジア、アフリカなどの薬用植物成分を探索しました。いま振り返るとこれらの研究は少年時代から趣味の延長で、自然界の多様性の追求であることがわかりました。素晴らしい宝はあまり見つかりませんでしたが、人間が考えつかないような天然物の多様性の魅力は何物にも代えがたいものでした。いくら生化学が進歩して生命現象が解明されても優れた医薬品のリード化合物は理屈ではなく、天然から偶然に見つかることが多いと思います。今後ともセレンディピティーに富んだ、自然探索研究者が育つことを望みます。
1997年8月中国雲南省虎跳峡にて、
ドイツのシュプケ博士と

草の根国際友好と学術交流を
 総合科学部 自然環境研究講座
   山下 和男(やました かずお)

 昭和四十二年に本学に奉職して以来、教え教えられての三十六年間大変感慨深い想いがあります。この度、大過なく定年を迎えることができますことは、ひとえに皆様の御蔭と感謝しております。在職中幸いにも三度、長期外国出張の機会(米国ミネソタ州立大学と二度ブルックヘブン国立研究所)を与えて戴きました。その折、教育・研究面のみならず、日常生活を通して諸外国の多くの友人を得て、相互理解を深めることが出来ました。帰国後はこのような体験を基に積極的に外国人留学生や研究員を受け入れてきました。しかし、残念ながら、欧米に比べわが国の外国人留学生(家族)の受け入れ態勢は未だ不十分です。本学が地域社会と連携して先進性を発揮し、国際競争力のある教育・研究機関であると同時に国際友好と学術交流大学の模範校となるよう期待いたします。


広大の学術交流提携校である中国華中科学技術大学を集中講義のため訪問したとき
(1993年10月)

定年を迎えて
 原爆放射線医科学研究所 組織再生制御研究分野 
   山田 重幸(やまだ しげゆき)

 昭和三十七年十月原医研遺伝学部門に勤務することになりました。当時は、岡本直正先生(名誉教授)、池田高良先生(前長崎大学長)、井上晃先生とスタッフは長崎人ばかりで言葉には不自由いたしました。医学の知識が全くない私は仕事を覚えるのが必死でした。六十一?あった体重が四十九?まで減りフラフラしながら仕事、野球の練習をしていたことを想い出します。また当時、原医研ファイターズという野球チームがあり皆んなでよく練習したものです。練習後はビール・酒と何時も飲んでいました。思い出は色々ありますが、皆様のご指導と励ましにより四十年間勤めることができました。本当に有難うございました。
 最後になりましたが、広島大学の更なる発展と皆様方のご健康とご活躍をお祈りいたします。

【部局歴】 原爆放射線医科学研究所

2000年9月 広島大学ボウリング大会
(筆者右端)

定年を迎えて
 医学部附属病院総合診療部
   横山 隆(よこやま たかし)

 広島大学医学部医学科に進学した昭和三十六年以来、霞キャンパスで約四十年お世話になりました。大学卒業後第一外科に入局、恩師、上村教授、臨床、研究など直接ご指導いただいた石井哲也先生など数多くの先輩、同僚、後輩に恵まれ、色々の難題も乗り越えて定年まで無事勤めることが出来ました。今、定年という一つの関門にさしかかって今までを回顧し、人と人とのつながりの中で支えられ、生かされてきた自分を感じ支えていただいた方々に心から感謝しております。今後国立大学法人化など広島大学の行く手にも大きな難関が数多く立ちふさがっています。この難関を乗り越え、新しく飛躍するためには全ての職員、学生が一丸となって人の和を大切にしてお互いに支え合いながら前進していただきたいと心から願っております。ご健闘を祈念いたします。
主宰学会終了時謝辞を述べる




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