「国際的に理解されるための教育」
「国際理解教育」は、2002年度から、いわゆる「総合的な学習の時間」の一環として全国の学校でさまざまに取り組まれてきています。しかし新しい領域だけに、現場では戸惑いや混乱も隠せないようです。広島大学の大学院国際協力研究科(IDEC)は、わが国で初めて「国際理解教育論」の専門研究室が置かれた大学院です。「国際理解教育」という語は、ユネスコの〈Education for International Under-standing〉の訳語ですが、私たちの研究室では、日本人にいま求められているのは、同時に、日本人自身が「国際的に理解されるための教育」〈Education for Being Internationally Understood〉ではないのか、と考えています。そして、いくつかの特質をもった国際理解教育の研究を進めています。
歴史的「誤解」を理解に、不信を尊敬に
ベオグラード国際シンポジウムに集まった各国研究者の交流風景 |
地方都市ノヴィサドの高校での講演終了後 |
一つは、「国際理解」を「あれこれの民族や国民の間に歴史的に形成された誤解の解消」と捉えいる点です。そうした歴史的誤解を正確な理解に、また誤解に根ざす不信や憎しみを信頼と尊重に、私たちは変えていかなければなりません。そのためには、「他者理解」と並んで「自己言及」(自分のあり方や位置の批判的再検討)が、これからの国際理解教育の車の両輪となるでしょう。
当研究室が開設されて間もない1996年の秋、ユーゴスラビアの首都ベオグラードに在る同国の国立教育研究所(NIPB)から、『次世代に対する愛他主義(アルトルイズム)の教育の可能性』というテーマの国際シンポジウム(注)を開催したいので基調講演を、という依頼がありました。同国ではその前の四年間、「ボスニア紛争」という同じユーゴ国民の間の、民族的・宗教的「他者」に対する相互の誤解と不信、恐怖や憎悪に根ざす破壊と殺し合いが続いてきました。この最悪の同時代史への深い反省に立って、子・孫の世代からはそうした相互敵視をやめ、「他者」の立場に立つことを知る多民族複合社会を再建したいとの願いから企図された催しでした。世界の教育研究者たちの助言を得るべく、米国・ロシアなどの多民族社会の大国、ドイツ・イタリア・チェコなど近隣の西欧・東欧諸国の専門家たちに加えて、遠く日本の広島にも参加の呼びかけがあったのです。世界初の原爆被害体験とその後の「恨み」の克服、不戦・平和を志向するその意志への世界からの理解と信頼の獲得について語ってほしい――私たちの若い研究室は、その要請に名誉と責任を感じました。
旧日本軍の捕虜であった元オーストラリア兵士の老人たいちに受け入れられ、研究への励ましを受ける大学院生(写真は、IDEC要覧から) |
二日間、延べ五百人余のユーゴの教育研究者や教師・一般市民の聴衆がつめかけた会場で、「ヒロシマの街の復興に際し、その平和大橋の設計や平和大通りの十万本植樹計画等が、かつての軍国日本の被害者であったスリランカをはじめ米・英その他の国々からの寄付によって実現した。被害者が加害者を赦したうえ善意を提供したその行為から、(広島市民は)学んだ」という経済学者・竹内常善名古屋大学教授(かつてのIDECの同僚でした)の所論を私が紹介したくだりで、予期せぬ拍手を受けました。フロアから「ボスニア難民」と称する元クロアチアの大学の先生が立ち上がって、「ヒロシマからの代表の話に感銘をうけた。私自身は自分を難民にした敵をまだ許す心境にはなっていないが、恨みに代えての寛容という課題を示唆された」と発言する一幕もありました。そのあと、私はその先生と地元放送局のインタビューを受け、また地方都市の高校での追加講演を依頼されたりしました。
評価主体の外在性
私たちの考える国際理解教育論の特質の第二は、ある一つの国際理解教育の実践がどの程度成功したか――いいかえれば、学習者(児童・生徒)の側が習得した「国際理解」の度合いは、本来、同国人である教師が評価しうるものではなく、国内外に住む外国人の側の目から見た評価でなければならない、という主張です。私はこれを、国際理解教育における「評価主体の外在性」と呼んでいます。
戦中・戦後のシンガポールの歴史とその歴史教育について修士論文を書いている、当研究室の女子学生Sさんは、日本軍占領下の同国や周辺の東南アジアで起こった状況を調べていて、シンガポール市で例年二月に行われている「旧日本軍の侵略による」戦争犠牲者の追悼・慰霊の催しを知りました。彼女は心に深く感じるものがあって現地へ飛び、式典に参加しました。元日本軍の捕虜(POW)だったオーストラリアの退役兵の人たちも多数参加している、想像以上の峻厳な雰囲気の中で、彼女は自分の出席意図を最小限の言葉でしか表明できなかったそうです。しかし、結果的には勇気ある若い日本人女性として式典参加者に受け入れられました。八十歳前後になっても旧日本軍に受けた過酷な扱いへの恨みを忘れていないオーストラリアの元捕虜兵士の老人たちには、優しい眼で、研究の成功を祈ると励まされました。Sさんの国際理解教育論の研究は、彼女の「国際理解」度が単に指導教官である同国人の私の評価だけでなく、外国人の目から見ても十分に評価されうるものであることを証明したといえましょう。
(注)このシンポジウムの性格と講演内容等については、Seiji INOUE: Across the Altruistic Education into International Ethics ―A Few Suggestions from Hiroshima and Japan―, IDEC Journal, 1998, No.2参照。 |