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原爆被爆者の
 長期ホルマリン固定臓器の
       過去・現在と将来
文・新田 由美子
(NITTA, Yumiko)
原爆放射線医科学研究所
国際放射線情報センター助手
藤原 恵
(FUJIHARA, Megumu)
広島赤十字・原爆病院病理部部長


はじめに
 広島大学原爆放射線医科学研究所(原医研)と広島赤十字・原爆病院では、被爆の医学的資料として、被爆者のホルマリン固定臓器標本をそれぞれ独自に保存してきました。一万二千例に達するこれら標本は、マクロ・ミクロ病理学的検索のための被爆資料から、ゲノム検索のための被爆資料として、注目されています。

ゲノム解読とSNPs
 生命維持に必要な情報を蓄えた最小限の染色体群をゲノムといいます。ヒトゲノムは三十億個の塩基が連なるDNA鎖から成り、そこに約三万個の遺伝子情報を蓄えつつ、二十三本の染色体のまとまりに分かれて存在しています。「三十億個の塩基配列を読んでしまおう」というのが、ヒトゲノム解読プロジェクトで、二〇〇一年、この目標はほぼ達成されました。
 ヒトゲノムは、個人個人で、微妙に異なる塩基配列を有し、これをSNPs(single nucleotide polymorphism, 単一塩基多型)といいます。ヒトゲノムには、百〜二百の塩基配列あたり一個の割合いでSNPsがみつかり、総計三千万個ほどのSNPsが存在すると予測されています。
 近年、このSNPsに、細胞癌化の過程で重要な役割を果たすものがあることがわかってきました。ただ、「発癌リスクを一・五倍高くする」SNPsを一か所探し出すためには、二千人以上の患者サンプルと、同数の健常者サンプルが必要です。また、SNPsは「いくつか重複することで癌リスクを五〜十倍高める」ことも明らかになってきて、そうなると、SNPs解析に必要なサンプル数は膨大で、発癌SNPs研究には国内外の協力が必須であることが理解できます。

原医研・国際放射線情報センターの試み
 原医研は、放射線の人体影響を研究する目的で、一九六一年に設立されました。設立当初から、原医研・国際放射線情報センターにおいて、原爆被爆者の剖検材料の収集・保存を開始しました。これらは、三機関(広島大学医学部、県立広島病院、放射線影響研究所)で病理解剖された被爆者のホルマリン固定臓器標本を、各機関で定めた保存期間終了後に移管したもので、一九九七年末までで八千四十四例に達しました。また、一九七三年には、AFIP(米国陸軍病理学研究所)が保有していた被爆者の医学資料が返還されました。これらは、被爆直後の状況を知る非常に貴重な資料であり、以後「被爆返還資料」として同センターが保管しています。
 一般に、ホルマリンには長鎖DNAを断裂する作用があり、ホルマリン固定液中に長期保存した臓器組織は分子病理学的サンプルとしての利用には適しません。原医研が保有する約八千例の被爆者のホルマリン固定臓器標本を用いた場合、どの程度の分子生物学的解析が可能なのでしょうか。一九九五年にまず、高分子DNAの安定性に対する長期ホルマリン固定の影響を明らかにし、昨年には、ホルマリン臓器材料であっても、ゲノムの塩基配列が短鎖DNAであれば解読できることを報告しました。これらのことから、被爆者のホルマリン固定臓器標本の保存継続必要性が示され、その利用価値も、マクロ・組織病理学的研究にとどまらず、SNPs研究が可能であることがわかりました。

原医研と広島赤十字・原爆病院の医学資料収集・保存の協力
 広島赤十字・原爆病院病理部は、剖検した被爆者のホルマリン固定臓器標本を独自に保有し、二〇〇〇年現在四千三例に達しています。「被爆者の癌組織を対象にした、放射線に関係が深いSNPsを探索」するために、原医研国際放射線情報センターと広島赤十字・原爆病院病理部とが、共同研究をすることは、意義深いことです。最も若齢の原爆被爆者が五十七歳を迎える今日、「医学研究のために」と献体頂いた方々のホルマリン固定臓器は、マクロ・組織病理学的解析に供された後、役目を終えたのではなく、最新技術を用いたSNPs解析の対象資料でもあります。合計約一万二千例の被爆者ホルマリン固定臓器標本が、再び研究利用されることを期待します。なお、被爆者ホルマリン固定臓器標本等の利用には、広島大学大学院医歯薬学総合研究科倫理委員会からの許可を必要としますことを、申し添えます。
 「被爆者のホルマリン固定臓器を保存する」ためには、保存空間確保・ホルマリン交換作業、廃ホルマリン液処理等の問題を解決しなくてはなりません。原医研では、真空パック法を採用することで、これらの問題点解決を試みています。この方法を採用して十年を経過しますが、保存状況は良好です(写真1、2)。

おわりに
 半世紀にわたる、広島赤十字・原爆病院での被爆医療の実践と、原医研での放射線影響研究および原爆資料解析(医学、物理学、史学、文学)は、近年の世界各地で後をたたない被曝事故の処理に幅広く国際貢献する基盤となっています。なお、写真提供には、平岡正行、谷省蔵両氏(国際放射線情報センター)の協力を得ました。

藤原 恵
1983年 広島大学医学部卒業
1987年 同大学院医学系研究科
     博士課程修了
1989年 広島赤十字・原爆病院
    病理部部長
医師、博士(医学)
専門分野:病理診断学
新田 由美子

1982年 山口大学農学部獣医学科卒業
1984年 山口大学大学院獣医学研究科
     修士課程修了
1992年 広島大学大学院医学系研究科
     博士課程修了
1992年 広島大学原爆放射能医学研究所助手
2002年 同原爆放射線医科学研究所助手
獣医師、博士(医学)
専門分野:放射線発がん、実験病理学、
マウス遺伝学



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