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アメフラシと
神経生物学
文・古川 康雄
(FURUKAWA, Yasuo)
大学院理学研究科
動物科学講座助教授


図1.アメフラシ(Aplysia Kurodai)。写真のアメフラシの体長は約15cm。大きい個体では体長が数十cmにも達する。

表1.アメフラシのAMRP族ペプチドの前駆体タンパクから作られるAMRP

多くの神経ペプチドと同様にAMRP族ペプチドは,前駆体タンパクとして一旦作られたものが酵素により分割され,カルボキシル末端がアミド化されて出来る.コピー数とは,一つの前駆体タンパクから作られる同一のペプチドの数を示す.□で囲まれているペプチドは生化学的に抽出されたもので,他は前駆体蛋白の遺伝子クローニングにより存在が推定されたもの.


図2.抗AMRP抗体によるアメフラシ血管の免疫染色。黄緑色に見える抗体陽性の繊維にそって多数存在する膨らんだ部分はヴァリコシティと呼ばれる構造で,伝達物質の分泌場所とされる。A:アマクサアメフラシの血管。B:アメフラシの血管。スケールは100ミクロン。


図3.アメフラシの血管に対するAMRPの作用。アメフラシの血管に神経ペプチドであるNdWFamideを作用させると収縮する(図では上方へのトレースのふれとしてみられる)。アマクサアメフラシ(Aplysia juliana)では,AMRP(GSPRFFamide)を共存させると血管が弛緩するが,アメフラシ(Aplysia kurodai)ではほとんど変化がみられない.
 アメフラシという動物をご存じでしょうか。春先から初夏にかけて、潮溜まりを歩いてみると見かける事がある大きなナメクジのような動物です。体色は黒紫色から茶色と地味で、動きも緩慢なため見た目にはあまりさえない動物ですが(図1)、この動物の神経系は、半世紀以上にわたって、神経生物学研究のモデルシステムとして研究され続けています。

 アメフラシが初めて生物学者の興味を引いたのがいつごろなのかはわかりませんが、この動物の中枢神経系に存在する巨大な神経細胞(最も大きな細胞では直径が一ミリメートル近くになります)から初めて神経活動が記録されたのは今から六十年以上も昔のことです。それ以降、神経生理学、神経生化学、神経行動学など、様々な神経生物学の研究分野において、この動物が研究材料として使われています。実験研究では、選んだ素材によって実験の成否が分かれることはよくありますが、神経系の基礎研究において軟体動物の神経系という生物素材がなかったとしたら、我々の知識がずっと遅れていたことは確かでしょう。ほとんどの生物学の教科書にのっている神経細胞の活動電位の発生機構については、半世紀以上前にイカの神経軸索を用いた研究により基本的に解決されていますし、シナプス伝達とよばれる神経細胞同士のコミュニケーション手段のメカニズムについても、イカやアメフラシの神経シナプスの研究から多くの基本的な知見が得られています。脳の高次機能のメカニズムを探る研究領域においても、神経細胞の総数が少なく、神経構築が比較的単純なアメフラシの中枢神経系はモデルシステムとして研究されており、この分野でのリーダーであるコロンビア大学のカンデル教授には二〇〇〇年にノーベル医学生理学賞が授与されています。

 日本の磯で比較的容易に採集できるアメフラシは、Aplysia kurodai(和名はアメフラシ)とAplysia juliana(和名はアマクサアメフラシ)の二種で、どちらも神経生物学実験によく使われます。私たちの研究室では、主にアメフラシを使って神経情報伝達系の仕組みに関するいくつかの研究を行っていますが、今回は、その中で神経ペプチドに関する研究の一端を紹介したいと思います。神経細胞間の情報伝達は、先にふれたシナプス伝達によってなされるわけですが、多くの場合、情報を出す側の細胞が分泌する伝達物質を、情報を受け取る側の細胞が受容することで成立します。伝達物質は何らかの化学物質で、高校の生物の教科書にものっているアセチルコリンとかノルアドレナリンなどのように古くから知られているものの他に、?味の素?の成分の一部としてお馴染みのグルタミン酸などのようなアミノ酸や精神疾患との関連で時々マスコミでも話題になるドーパミンとかセロトニンなどのアミン類などが知られています。これらに加え、機器分析法や抽出方法の進歩のおかげで、様々な動物の中枢神経系には、多種類のペプチド(数個から数十個のアミノ酸が結合したもの)が存在している事がわかりました。それらペプチド類も伝達物質として働いているらしいと考えられているのですが、それらの生理機能や作用機序がきちんとわかっている例はあまりありません。私たちは、アメフラシという動物の神経系が持つ研究素材としての利点を生かせば、神経ペプチドの生理機能をより明確に調べることができると考え、まず、アメフラシの神経系で働いている神経ペプチドの種類を明らかにするために、アメフラシの神経系から神経ペプチドの抽出を始めました。その結果、既知のペプチドを含む数十種類のペプチドが抽出され、それらの一次構造が決定できました。

 表1に示してあるのは、その中で、アメフラシMIP関連ペプチド(以下では、AMRP族ペプチドと略す)と命名した一群の神経ペプチドです。MIPとは、Mytilus inhibitory peptideの略称で、十数年前に、総合科学部の宗岡教授の研究室において二枚貝のムラサキイガイ(学名がMytilus edulis)の神経節で最初に抽出されたペプチドです。MIPに類似のペプチドが多くの軟体動物に存在していることから、軟体動物の神経系において重要な働きをする神経ペプチドだろうと思われていたのですが、その詳細は不明でした。いくつかのグループとの共同研究の結果、AMRP族ペプチドは十五種の異なった構造をもつMIP類似ペプチドを含む一つの前駆体タンパクの形でまず合成される事がわかりました。前駆体タンパクの中でのコピー数の違いから、アメフラシの神経系で主に働いているペプチドは、GSPRFFamideであることが示唆されました。抗体を使ってAMRP族ペプチドを含有すると思われる神経細胞の分布を調べてみますと、多くの中枢神経系や様々な器官を支配する末梢神経系に分布していることがわかりましたが、なかでも消化管と血管には多くの抗体陽性の神経線維が存在していました(図2)。このことから、AMRP族ペプチドがこれらの器官の機能調節を行っているものと思われます。現在は、AMRP族ペプチドの生理機能や作用機序を明らかにするために研究を進めていますが、その中で、最近得られたアメフラシの血管におけるAMRP族ペプチドの作用に関する実験結果を一つ紹介したいと思います。アメフラシとアマクサアメフラシは近縁種ですが、どちらのアメフラシの血管にも、AMRP族ペプチドを含有すると思われる神経線維が分布していますので(図2)、AMRP族ペプチドがこれらアメフラシの血管の機能を調節するものと考えられます。そこで、摘出した血管にAMRPを作用させてみたところ、アマクサアメフラシの血管は弛緩するのに、アメフラシの血管はほとんど反応しないという結果が得られました(図3)。どうもアメフラシの血管系におけるペプチド性神経調節は、たとえ近縁種でも大きな質的な違いがありそうです。

 私たちは、ある種の神経機能を研究するためには、アメフラシがモデル動物としてすぐれていると考えてアメフラシをあつかっています。多くの医学や生物学系の研究者が、人を視野においてラットやマウスをモデル動物として研究するのと基本的には同じスタンスです。気づかないうちに、ついつい生物の世界の多様性を忘れがちです。アメフラシの血管で思いがけず見つかったペプチド作用の違いには、改めて生物世界の複雑性や種の違いを意識させられました。

付記:ここで紹介した研究は、平成十五年四月に広島工業大学に転出されました松島治教授を中心とした情報生理学研究グループにおいてなされたものです。また、本研究の一部は、本学機器分析センターの太田助教授、サントリー生物有機科学研究所の南方博士、藤澤博士、マウントシナイ医科大学のWeiss教授、Vilim博士との共同研究として行いました。


古川 康雄
1988年 広島大学大学院生物圏科学研究科修了
1988年 広島大学医学部助手
1989年 コロンビア大学医学部博士研究員
1992年 広島大学総合科学部助手
1996年 広島大学理学部助教授

専門分野:神経生物学
研究室のホームページ:
 http://labs.sci.hiroshima-u.ac.jp/
homepage/bio/APN/APN1.html



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