一緒に生きる喜び  文・李 垠圭
( LEE, Un-Kyu)
大学院社会科学研究科国際社会論専攻
博士課程後期単位修得退学
(韓国・大邱出身)


平和公園にて
 昨年暮れ、ニュージーランドの高校に留学中の長男が帰ってきた時に、初めて家庭礼拝のリーダーを任せました。『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです』。その日、この御言葉を選んで彼自身の経験と合わせて聞かせてくれた十六歳の我が子に気づいたことがあります。それは、母親である私が思った以上に、息子は自分のアイデンティティと孤軍奮闘しながら頑張っていることです。

 私は、日本の社会では「来日十五年目になる在日韓国人二世の妻」と呼ばれ(ちなみに、韓国では在日同胞と呼ばれます)、在日社会では「New Comer」と呼ばれ、学校では「留学生」と呼ばれています。どちらも私には、まるで似合ってない洋服を着ている気分です。また、自分みたいな存在は、意外に在日社会の中でさえも受け入れられがたい存在である、という不思議な現実に戸惑う事があります。それは、夢にも思わぬ伏兵が自分の人生に突然現れたようでした。私はその現実を前にして、時には気を落とすことがあり、時には、その背景となった今日に至る在日社会の大変な歴史を感じ、気持ちが重くなります。

 日本での生活に、私が勇気づけられながら前向きに歩むことが出来るようになったきっかけは、一九九五年に研究生から始まった『広島大学との出会い』です。それは、神様が私にくれた賜物であり、ご褒美であると思っています。なぜならば、まず実家の両親と兄弟が喜んでくれました。(三人兄弟の中で、私が唯一国立の大学院へ入学したからです。)それから、子供達とテーブルを囲んで、親子の会話を交わしながら一緒に勉学に励むことが出来ました。一時的に幼い子供達と夫に苦労させている自身に苦悩したこともありました。しかし、大学院で自分の勉強をしながら、外国語を習得することの難しさを実感したことで、子供たちには、祖国の言葉の韓国語が自然に身に付くよう育てました。そのお陰で、今年の元旦に息子から新年の挨拶として、「自分の偉大な財産は、母から信仰心と祖国の言葉を、父から本を読む習慣と日本語を授かったことである」と聞かされました。

 新たなキャンパス生活を通じて、私はふだん出会うことのない様々な国の留学生と交わり、その国に関心を持つようになりました。また、いろんな地域から広大に来た学生達やゼミの研究調査を通して触れた「日本の地域文化」にも関心が高まりました。
 それから、上・下蒲刈町での「独居老人生活実態調査」や高知県の「わすれな草の託老所」と大阪府堺市の在日コリアンの「特別養護老人ホーム(故郷の家)」、また、その他多くの老人施設で、たくさんの日本や在日の老人に出会いました。その時に教えて頂いた人生の素晴らしさと個人の歴史の大切さは、自分には一生忘れられない想い出になりました。そして、長年、電車通学の車窓から見た日本の四季の風景は、異邦人である私の心を癒し、電車の中で触れ合う人々からは、一緒に生きる喜びがもたらされました。

 二回目だった修士受験の日の朝、乗る予定のローカル電車がいつもより早く駅に到着しているのを見て慌てている私に、『あなたが乗ろうと思ったら乗れるよ』と駅員が声をかけてくれ、必死に陸橋を渡り電車に乗ったことがあります。何気ないこの一言が、試験を目前にしてナーバスになっている私には、天から「あなたがやろうと思ったらやれるよ」と励まされたように感じました。嬉しくなって前向きに試験に臨むことができ合格しました。
 まるで早めに来て待っていたかのような電車。不安な私に声を掛けてくれた名も知らない駅員の方。うまくいった試験。偶然かもしれないけど、私はその日の出来事に大変感動しました。今でも、困難なことに直面するたびに、「自分がやろうと思ったらやれる」という信念を抱くきっかけとなったその日の出来事を思い出します。

 現在の私にとって、日本で暮らす日々を積み重ねるほど、日本社会でも(まず地域社会ですが)在日社会でも自分らしく生きながら、その社会の一員として調和していくことが大きな課題になっています。
 あの試験の日の感動をいつまでも忘れず、この世の中にたった一つの、たった一つしかない自分のブランドを活かして生きていこうと思っています。
 新入生の皆さんも、新たな大学生活の中で、様々な人々や出来事に出会うと思います。その一つひとつの出会いを通して、一緒に生きる喜びを感じるように過ごしてください。
(原文・日本語)


広大フォーラム2004年月号 目次に戻る