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  咀嚼が痴呆を予防する 
ーなぜ歯があるのか?
文・丹根 一夫
(TANNE, Kazuo)
大学院医歯薬学総合研究科
顎口腔頚部医科学講座教授

 口腔あるいは歯の機能については皆様よくご存知と思います。医食同源のごとく、楽しく味わいながら食することが健康長寿を達成する最高の療法と言えます。また、中枢で最も重要な大脳における口腔関連領域はきわめて広く、口腔を起点とする刺激が中枢の機能を保持する上で不可欠と思われます。本稿では、食に関係する咀嚼あるいはその根本にあります歯の役割に着目し、関連する研究を紹介させていただきます。

咀嚼を科学する:アルツハイマー型痴呆との関わり
図1 アミロイドベータ蛋白の発現を示す免疫染色像
(図中の数字は大脳皮質における同タンパク質の発現数)
図2 モーリス水迷路実験(右)におけるゴール到達
時間(左)(360日齢マウス)
*有意差あり(P<0.05)図中縦線は標準偏差
 アルツハイマー病は、中枢神経系におけるアミロイドベータ蛋白の沈着とこれによる神経細胞の喪失により発症します。この異常蛋白はミクログリアなどの生理活性物質による貪食機能あるいは分解機能により排除されることも知られています。実際に、実験に供した大理石骨病マウスでは、ミクログリアの数が減少していることが報告されています。
 今回の研究では、正常マウスと先天的に歯の生えない大理石骨病マウスを対象として、中枢神経系の大脳皮質、海馬、視床などにおける同蛋白の沈着と海馬周辺の神経ニューロン数について世界で初めて検討しました。その結果、大理石骨病マウスでは、特に大脳皮質においてアミロイドベータ蛋白の沈着による老人斑の形成が多数検出されたのに対して、正常マウスではまったく認められませんでした(図1)。また、記憶・学習機能を司る海馬周辺の錐体細胞数を比較すると、大理石骨病マウスではその数が有意に少ないことが明らかとなりました。同様の結果は異なる物性の餌を与えた正常マウスでも確認され、固形餌飼育群と比べ粉末餌飼育群において、大理石骨病マウスの所見がより顕著に認められました。さらに、正常マウスを使った水迷路実験の結果、ゴール到達時間が粉末餌飼育群で長くなり、実験二、三日目では有意の差が明らかとなりました(図2)。このことは、餌の物性による咀嚼を介して中枢へ伝達される刺激の差がマウスの記憶・学習機能に関係していることを強く示唆する結果と言えます。
 以上の結果は、常に食物をよく噛んでいる動物と比べて、先天的に歯の生えない大理石骨病マウスや恒常的に軟性食を摂取してきたマウスでは、咀嚼による中枢への刺激が恒常的に減少し、中枢神経系の各部位におけるアミロイドベータ蛋白の沈着や、記憶・学習機能を制御する海馬神経ニューロン数の減少が惹起されることを実証する世界初の発見と言えます。実際のアルツハイマー病患者の口腔内を観察すると、歯の喪失が顕著で、長期間にわたり咀嚼機能が大きく低下していることが容易に推察されますが、このことがアルツハイマー病の発症に関与している可能性が強く示唆されます。さらに、歯科治療により咀嚼機能を賦活させること、あるいは何らかの特効薬によりアミロイドベータ蛋白を排除することにより、同蛋白の沈着や神経細胞の減少を抑制し、ひいては痴呆の発現を予防することができるものと大きな期待が寄せられています。そこで、これらの研究の成果を踏まえ、「日頃から歯を大切にし、よく噛むことがボケの予防につながる!!」を発信したいと思います。

夢の“歯の移植治療”を目指すベンチャー企業(社長:大学院生)の設立!!
図3 歯根膜組織の再生実験
 前述のアルツハイマー病の項で述べましたが、歯の存在、歯を介した正しい咀嚼が中枢の構造・機能保持に重要であることが明白にされました。そこで我々の研究室では、科学技術振興機構、ひろしま産業振興機構などの支援を受けて、夢の”歯の移植治療“の企業化を目指した開発研究を進めてきました。その結果、我々の研究室の大学院生が第一回(平成十五年二月)、第二回(平成十六年一月)キャンパスベンチャーグランプリCHUGOKU(日刊工業新聞主催)でそれぞれ奨励賞、特別賞(中国経済産業局長賞)を受賞するとともに、広島大学学生表彰(平成十六年三月二十三日)を授与される等、明確な成果が表れてきました。その後、本年四月一日付けで大学院生を社長として、「有限会社スリーブラケッツ」の設立に至りました。その事業内容は多岐にわたりますが、特に歯根膜の再生と冷凍保存法の確立と新たな歯の移植法の開発が注目されています。
 一般歯科臨床では何らかの理由により抜去される歯として、代表的なものに智歯(親知らず、第三大臼歯)があります。このような歯を対象とし、まず歯根面に特殊なコラーゲンを塗布し、患者の血漿を培養の栄養剤とし、足場となる人工骨(オスフェリオン:オリンパス)に接触させながら歯根膜を再生させます(図3)。さらに、特殊な冷凍技術を駆使して歯根膜線維を変性させることなく長期(最長四十年)保存し、必要なときに元の患者の口腔内に移植するというのが本研究の概要です。既に倫理委員会の承認を受けており、歯のバンキングや移植医療が開始されるのも時間の問題です。
 なお、広島大学ホームページに最近掲載されました「広島大学医歯薬学総合研究科歯学研究教育組織の研究活動 大学院教育研究拠点プログラム」(※)に我々の歯科医学分野の最新の特筆すべき研究が紹介されていますので、併せてご覧いただけましたら幸いです。

http://www.hiroshima-u.ac.jp/index-j.html→「研究・産学連携」→「特色ある研究活動紹介」をご覧ください。

丹根 一夫 PROFILE
1974年 大阪大学歯学部卒業
1985年 米国コネチカット大学
客員教授(1987. 6まで)
1987年 大阪大学歯学部附属病院講師
1993年 広島大学歯学部教授
2000年 同歯学部長(2004. 3まで)
2002年 同大学院医歯薬学総合研究科
教授
専門分野: 歯科矯正学、顎口腔頚部医科学


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