留学生の眼(99)

文・ツウェントーフ,オリガ
( TSVENTUKH, Olga )
大学院教育学研究科
言語文化教育学専攻日本語教育専修
博士課程前期2年
(ウクライナ出身)




京都で行われた夏祭りの浴衣ファッションショーにモデルとして出演した時の仲間と(2002年8月。筆者右から5人目)
 文化の違いは、頻繁に大騒ぎを起こしたり、誤解やいわゆる「カルチャー・ショック」の原因にもなったりするばかりではなく、文化の違う私たちの相互関心を生み出すものでもあると思います。ウクライナ人の私だけではなく、他のヨーロッパ出身の留学生も「そう思っている」と意見の同意が確認できました。

 文化の違いと言えば、日本に比べたらウクライナの文化はわりに「サイレント」に感じられます。日本では、何も言うことがない時でも、たとえ全く意味のない挨拶でも、とりあえずなにか言うという習慣があります。例えば、日本人の家庭では、自分のすべての行動にコメントをつけることになっており、出かける時は「行ってきます」、帰ってくると「ただいま」、食事の前に忘れなく「頂きます」、食事中の「いかがですか」や食事後の「ごちそうさま」、また、同僚や同級生に対しては必ず「お疲れ様」(まだ何もしていない時でも)や「お先です」など、複数の「余計な挨拶」をすることを忘れてはなりません。それに対して、ウクライナの家庭では、「こんにちは」、「さようなら」、「ありがとう」と「すみません」という最低限の挨拶さえできれば、生活上の問題は生じないということです。

 長年にわたって日本に滞在することになった私は、自分が慣れた生活様式や常識を捨て、「郷に入れば郷に従え」という原則に則り、日本の生活様式を受け入れることにしたことで日本色に染まり始めましたが、そのような「変わった外国人」に、たいていの日本人は感嘆し、目を見張ることが多いですね。食事の時間がやってくると、食卓にきちんと箸を添え、器用に「頂きます!」と…、生活様式上は日本人と変わらない私にも「無理」な技がありました。日本では、普通うどんやそばは、音を立てて食べないとおいしくないと言われているのに対して、「食事中に絶対に音を立てるな」と厳しくしつけられてきたヨーロッパの人間にとって、あの「ツルツルすすり」の音は生理的に受け付けられない音です。それに、音を立てて食べなさいと注文をつけるのは、逆に日本人が音を立てずに食べるのと同じぐらい難しいスキルなのです。そのように「しようがない時」はいつもの笑顔を作る外はありません。

 もう一つ日本語の曖昧さに関してもノー・コメントのままではいけないでしょう。例えば「どうも」は、日本人の口ぐせの一つですが、挨拶の外、感謝や陳謝をする時など、ほとんど際限なく使うこの言葉に、留学生は目を白黒させます。私の母語(ウクライナ語、ロシア語)に比べ、曖昧性の強い日本語の最たるものが、この「どうも」です。この曖昧な言葉とその裏に潜んでいる意味を説く教科書は一冊も存在していません。道理で外国人がそれを理解したり使用したりできないはずです。その反対に、五年間私は日本で、教科書通りに話している日本人を、一人も見かけていません。その結果、覚えるはずだった例えば教科書の「何を言っているのですか」とか「それは違うでしょうね」の代わりに、大学(私は奈良の天理大学卒)の友達から「ナニ ユーテン ネン」や「ソリャ チャウ ヤロ ナ」という関西バージョンの日本語を習得してしまいました。つまり、母語と英語のほかに、二つの日本語を身につけている私は、有名なCMに出ているエイリアンのように「みかけとちゃいますね」、日本語の「バイリンガル」になったというわけです。逆に、こちらが教科書通りに話していると、日本人は「何チュかわいい、その外人の日本語!」とクスクス笑いで目を細めます。

 確かに、文化や物の見かたが日本人とは異なるかもしれませんが、五年の留学の間、私は日本と一体化し、自分が外国人だなんて、鏡を見るとき以外はあまり自覚しなくなりました。このようにもう一人の自分が生まれることができたのです。それは、きっと日本で出会った友人のおかげに違いないと思います。
( 原文・日本語)


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