開かれた学問(61)

被爆都市広島と借家権

文・高橋 弘


阪神・淡路大震災は土地法の面でもたくさんの難問を提起してい る。
 行政が街づくり(都市改造、都市整備)をするにあたって、どういう手法 を選択するかがスタートであり、これを誤ると住民との紛争を生じて事業が長期化 したり、経費の増加を招来しかねない。
 その問題解決の糸口を過去の例からも探索するため、日本土地法学会中国支部で は昨年の十二月七日に、「被爆後五十年 広島の復興と土地問題」というテーマで シンポジウムを開催した。
 報告内容は、戦後復興期の法制度、借地権・借家権、不動産登記、土地計画(事 業主体と財源、私権の制限、土地区画整理と減歩・一坪換地)、復興計画と小規模 共有地などをめぐる諸問題、と多岐にわたった。
 「都市計画と私権の制限」。都市が発展し続ける限り、争点は疑いなくここにあ る。




1. 阪神・淡路大震災と関東大震災

   阪神・淡路大震災では、倒壊家屋は十九万二七〇六棟(四十万 六三三七世帯)、焼失家屋は七四五六棟(九三二二世帯)であった。阪神 の借家率は一般に四〇〜五〇%であり、かつ、木造老朽家屋の倒壊が著しいことを 考えれば、借家の倒壊は十万棟以上、二十万世帯を超える借家人が被災したようで 、同時に、集合住宅等の中高層建物をめぐる法的諸問題が新たに発生した。
 大正十二年九月一日の関東大震災では、全壊家屋は十二万八千余棟、半壊家屋は 十二万六千余棟、焼失家屋は四十四万七千余棟にのぼり、被災者は三四〇万人に達 し、特に家を失った借家人が旧借家の跡地に(借家人には借地権がないのに )自力でバラックを建てる「バラック紛争」が多発した。このため、借地借家調停 委員会の臨時出張所が東京市内の十三か所(麹町・神田・日本橋・京橋・芝・赤坂 ・本郷・下谷・浅草・本所・深川・牛込・小石川)に設置され、同年九月二十六日 から精力的な活動を開始した。
 この活動による調停成立事案の紛争態様と解決内訳の統計が残されている。同年 十一月末までの間に調停が成立した一九七二件の紛争態様の内訳は、(1)借 家人と土地所有者たる家主間のバラック建設紛争九三五件(四七%)、 (2)借家人と借地人たる家主間のバラック建設紛争五四六件(二八% )、(3)借家人の敷金等返還請求二七〇件(一四%)、(4)借 地権の存否・明け渡しに関する紛争一六四件(八%)、(5)借家の滅 失・修繕・明け渡し・家賃に関する紛争五五件(三%)であった(法律新 聞二二〇八号十〜十一頁)。  当時、大正十年成立の借地法・借家法及び大正十一年成立の借地借家調停法があ ったが、借家人のバラック建設を保護する規定はなく、調停による問題解決が求め られた。こうした調停活動が、大正十三年の「借地借家臨時処理法」に結実し、さらには現行 の「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和二十一年法律第十三号、昭和二十二年 改正法律第一〇六号、昭和三十一年改正法律第一一〇号、以下「罹災法」という )へとつながっていった。

2. 広島被爆と住宅推移

 被爆当時の広島市の建物数は、七万六三二七戸(うち住宅六万 四五二一戸)であったが、被爆により爆心地から二キロ以内の建物は全壊 または全焼し、そのため全焼五万五〇〇〇戸、半焼二二九〇戸、全壊六八二〇戸、 半壊三七五〇戸という被害により、八四六七戸に減少した(昭和二十年十一月三 十日調)。原爆により広島は「七十五年不毛の地」とか「生物の生存を許さざる 地」といわれ、市中心部には住めないとの不安もあったが、市民は、焼け残りの資 材でバラックを造り、防空壕に住み、半壊の家屋を修理して雨露をしの いだ。
表1  昭和二十年の終わり頃からは、疎開したり避難していた人々の復帰や引揚者・復 員者で、人口は急増した(昭和十七年末に四十一万九千余人であったが、戦時中 の疎開等により漸減したとはいえ、被爆前にはなお三十一万二二七七人であった。 しかし、原爆で約十四万人を失い、昭和二十年十一月の人口調査では十三万六五一 八人と激減した。昭和二十一年四月には十七万一二〇四人、同年八月には十七万八 一一九人、昭和二十二年八月には二十一万二二三五人、昭和二十四年末には二十七 万人を超えた)。
 戦前七割以上を占めていた借家は、戦後には激減した。表1は広島の市制施行後 の住宅戸数の推移を示している。表2の被爆直後の借家数が一万二七二六戸から昭 和二十三年八月には四九四四戸へ、逆に借地数が二八一九戸から一万三九三二戸へ と変化しているが、被爆直後の借家数は全壊・全焼・半壊・半焼した借家を家主以 外に借家人が自力で建てたバラック又は修繕した家の数をも加えているものと思わ れる。すなわち、家主に資力がないまたは家主の生死・居所が不明であるため、旧 借家人が雨露をしのぐ必要から自力で建てたバラック又は大修繕を施した家は旧借 家人の持家として、その後旧借家人が地主との間で借地契約に切り替えたものと思 われる。 表2
















3. 国及び県市の住宅政策

 国は昭和二十年九月に三十万戸を目標に「戦災都市応急簡易住宅 建設要綱」を閣議決定し、全国の被災都市に建坪六・二五坪の応急簡易住宅を国庫 補助(補助率二分の一)で建てさせることにした。広島市では、住宅営団が 国庫補助を受けて七四三戸の越冬用簡易住宅を、昭和二十年から二十二年にかけて 基町の軍用地跡に建てた。また、住宅営団と広島市が建てた一八〇〇戸(営団一 五〇〇戸、広島市三〇〇戸)の建坪七・五坪の組立住宅が、一セット三五〇〇円 で売り出されたが、預金封鎖で五百円生活を余儀なくされていた市民にはなかなか 入手が困難であった。市営住宅は、昭和二十一年度に五二八戸、二十二年度に七一 〇戸、二十三年度に六五七戸、二十四年度に三四五戸、二十五年度に三三四戸、合 計二五七四戸、県営住宅は二十三年度に一四二戸、二十四年度四年度に一三三戸、二十五年度に八十戸、合計三五五戸、国庫補助を得て建てられ た。これらの公営住宅や応急簡易住宅は「マッチ箱住宅」と言われた。
 国は昭和二十年十一月に「住宅緊急措置令」を公布し、既存建物の住宅への転用 と間数の多い余裕住宅の開放を命じ、また、二十一年三月に「都会地転入抑制緊急 措置令」を公布し、広島市への人の転入も抑制したが、広島市ではともに効果がな かった。さらに、二十一年五月の「臨時建設制限令」の公布施行により料飲店、映 画館、十五坪以上の住宅・店舗の新増築が禁止され、二十二年二月の「臨時建設等 制限規則」により十二坪以上の住宅の新増築が禁止され、二十三年八月の「臨時建 設制限規則」により家族五人以内十五坪までとし、一人増えるごとに一・五坪の増 築を認めるとする不要不急の建築統制が建設材料の統制と共に行われたが、効果は 乏しかった。


4. 被爆後の借地借家の法的救済措置

 被爆前後の借地借家の法的救済措置としては、時系列的にみると 以下の諸法があった。すなわち、昭和十四年十二月二十八日から借地法・借家法・ 借地借家調停法が広島県に施行され、十六年三月十日から借地法・借家法の改正法 が全国施行となり、二十年九月一日から戦時罹災物件令が被爆した広島市に施行さ れたが、終戦によりその親法たる戦時緊急措置法が廃止されたことに伴い、二十一 年九月十五日に廃止され、代わって同日から「罹災法」が広島市に施行された。「 地代家賃統制令」も、昭和十四年に第一次統制令が制定されたが、有効期間が一年 に限定されていたので、翌年に第二次統制令が制定されたが、これもその基礎であ る国家総動員法の廃止に伴って二十一年九月末で失効したので、新たにポツダム勅 令をもって制定施行された~K~(昭和二十一年ポ勅第四四三号)。   


5. 罹災法の内容

   罹災法の内容は以下の通りであるが、建物の「滅失」の場合にの み、旧借家人に以下の(2)(3)(4)の特別な権利が認められて いる。建物の「滅失」とは「物理的に損壊・焼失し建物の効用を失ったこと」をい うが、物理的には修理可能であっても新築に匹敵するような不相当に高額な費用が 必要であるときも含まれる。滅失かどうかにより当事者間の法律関係が大きく異な るほか、税金や特別の救済措置等の関係における扱いも異なってくる。
(1)戦時罹災土地物件令に関する経過規定 (第二十九条〜第三十四条) 建物滅失の時から終戦後命令で定める期間の経過した時(昭和二十一年九月一 五日)までは、借地権の存続期間の進行を停止する。この間、滅失建物の借家人は 敷地を使用できる。ただし、建物滅失後二か月以内に借家人が土地を使用しないと きは、土地所有者が使用できる。
 滅失建物の借家人は、当該敷地を建物の所有を目的とするものとして昭和二十一 年九月十五日から一年間(昭和二十二年法律第一〇六号により二年間に延長。以 下同じ)、その他のものとしては六か月間使用できる(臨時敷地使用権。第二十九条 )。この臨時敷地使用権は、第二条及び第三条の適用においては、借地権ではな い(第三十一条)。この間、当該土地の借地人の借地権の存続期間 の進行は停止される(第三十条)。
 建物所有のための敷地の臨時敷地使用権者は、罹災建物の借主と同様、昭和二十 一年九月十五日から一年間(二年間に延長)、当該敷地の所有者に対する優 先借地権の申出権(第二条)、又は対抗要件を具備した借地人に対する借地 権の優先譲受の申出権(第三条)を有し、この借地権を取得できないときは 、申出拒絶者に対し建物買取請求権を有する(第三十二条)。
(2)滅失建物の借家人の、敷地の賃借権の優先取得(借地権の存し ない場合。第二条)  滅失建物の借家人の、当該敷地又はその換地に借地権が存しない場合には、当 該敷地又はその換地についての、勅令施行日(昭和二十一年九月十五日)か ら一年間(二年間に延長)の、土地所有者に対する「相当な借地条件での」 優先借地権の申出権(第二条)。拒絶には正当事由が必要(第二条第三項 )。
(3)滅失建物の借家人の、敷地の借地権の優先取得(借地権の存す る場合。第三条) 滅失建物の借家人の、勅令施行日から一年間(二年間に延長)の、対抗 要件を具備した借地人に対する借地権の「相当な対価での」優先譲受の申出権( 第三条前段)。拒絶には正当事由が必要(第三条後段)。
(4)滅失建物の借家人の、新建物の賃借権の優先取得(第十四条)  滅失建物の借家人の、滅失後最初にその敷地に建築された建物についての、建 物完成前の優先借家権の申出権(第十四条)。拒絶には正当事由が必要( 第十四条第二項)。
(5)罹災地借地権の対抗力(第十条)  昭和二十一年七月一日から五年間、登記なくして対抗できる。
 罹災地借地権の存続期間(第十一条)  昭和二十一年九月十五日に十年未満のものは、十年とする。十年とされたのは、 戦後の罹災地に築造され得た建物の耐久力が通常の三分の一程度であったことが考 慮された。 (6)罹災地の土地所有者の借地権者へ(借地権存続の意思ありや )の催告権(第十二条)  昭和二十一年九月十五日から一年(二年に延長)以内。
 罹災地の借地権者の第二の借地権者(地上権者からの賃借人、賃借人からの転 借人)へ(借地権存続の意思ありや)の催告権(第十三条) (7)紛争処理(第十五条):裁判所、鑑定委員会(第十九条〜第二十二条)  多数申出人間の土地割当の紛争処理(第十六条)
 裁判所による借地借家条件の変更(第十七条)
 管轄裁判所:地裁。非訟事件手続法により行う(第十八条 )。


6. 被爆後の借地借家紛争
 被爆により、裁判所庁舎は倒壊炎上し、広島控訴院では四十二名 の職員のうち十六名が即死、八名が負傷し、地方裁判所及び区裁判所では八十二名 の職員のうち十五名が即死、四名が行方不明となり、二十五名が負傷した。各裁判 所は、昭和二十二年六月四日に現在地に一部竣工した木造二階建庁舎へ移転するま で、府中町長私邸、府中町龍仙寺、三次区裁判所、庄原区裁判所、三次町長別荘、 宇品の広島保護観察所、府中国民学校、日本鋼管広島製作所、東洋工業などを転々 としつつ、対応措置をとっていった。
 また、広島在住の弁護士も会員四十名のうち、二十三名が原爆で亡くなった。民 事事件については、原爆でたくさんの市民が死亡したこともあって、敗戦直後、訴 訟を起こす人がほとんどなかったようである。民事事件が増えてきたのは、昭和二 十四、五年頃からで、土地事件(不法占拠事件、区画整理事件)や公示催告 事件(原爆で証券類を焼いてしまったため、除権判決をもらう必要があった )が主であったようである。なお、広島では不法占拠者による時効取得を原因とす る所有権登記は、今のところ見あたらないという。
 被爆後の借地借家紛争については、昭和二十五年及び二十六年版の広島市市勢要 覧に以下の統計が記載されている。

(1)広島地方裁判所での借地借家調停事件数 (昭和二十五年版広島市市勢要覧四十四頁)
新受(件) 既済    未済   
昭和23年  2  1  1
昭和24年  0  1  0
昭和25年  0  0  0

(2)広島簡易裁判所での借地借家調停事件数 (昭和二十六年版広島市市勢要覧五十頁)
新受(件) 既済   未済  
昭和23年 147 133 33
昭和24年 71 66 38
昭和25年 178 112 66
 広島地裁にこれらの借地借家調停の関係書類の存否についてお尋 ねしたが、残念ながら書類が見あたらないとのことであった。将来、書類が見つか れば、内容を検討して、関東大震災の時の詳細な統計と比較してみたい。

 
7. おわりに
 被爆という未曾有の災禍と被爆後五十年という時の 流れのため、短期間に必ずしも十分な資料を発掘入手できなかった。今後とも調査 を継続して、資料の発掘につとめたい。
 なお、広島地裁総務課長の明知孝治氏には大変お世話になった。記してお礼を申 し上げたい。


プロフィール
高橋 (たかはし・ひろし)
◇一九四三年下関生まれ
◇一九六九年大阪市立大学大学院法学研究科修士課程修了
◇一九七一年八月から本学勤務
◇所属=法学部教授
◇専門=民法。現在、主催旅行契約や建設工事請負契約を素材に 、契約約款の規制方法や互恵取引(reciprocity)社会における契約の 特色の研究を続けている。

   

広大フォーラム29期1号 目次に戻る