コラム

高等教育セミナーに参加して(4)




 「ところで、私学関係者はしばしば、『国立大学に“建学の精神 ”はないが、私学にはそれがある』と主張する。私学の中に素晴らしい精神を持つ 例があることは確かであろう。しかし、国立にもよさはあるのであって、官制の教 育を個々の大学がいかに施していくか、その過程で各大学の個性も生まれうる。私 としては、アメリカ式が必ずしも最高とは思わない。日本の学校教育とて捨てたも のではない。なればこそ、今日多くの大学に如何なる人材を育てるかの指針を見出 せないことは残念である」。
 飯島元学長の苦言は続く。「そもそも教育などというものは、三十年あるいは五 十年を経てようやく成果の一端が現れうるもの。現実を追うばかりでなく、むしろ 密かに期するものがあってもよいはずだが、『三種の神器』のごとく『国際』『情 報』『人間』を冠しさえすれば審査はパスできる、といった今日の風潮は如何とも しがたい。皆がこれでは個性など期待できない」。
 近年、教養部及び学部・研究科の改組、新設により、私立も含め新組織の誕生が 相次いでいることは自明であるが、飯島氏の指摘は事実の一端をよく言い得ている 。そして、この現象は、おそらく先の臨教審で、国際化・情報化への対応と人間性 の荒廃に対する取り組みが強調されたことと無関係ではない。例えば同第一次答申 (昭和六十年)は、「今次教育改革」の意義を次のように説いている。
 「時代は、二十一世紀に向けて、真の国際化への転換、情報中心の文明への転換 、さらに人生五十年型から八十年型社会への転換の時期にさしかかっている。二十 一世紀科学技術文明は、改めて人間の生き方を問い直し、人間性の回復を求めるこ とになるであろう。教育もまた、このような時代の要請にこたえる必要がある」。  ただ同時に注目すべきは、上記答申が、戦後教育改革が繰り返し求めながら定着 するに至らなかった「個性重視の原則」を改めて掲げていることであろう。ここで は「個性とは、個人の個性のみならず、家庭、学校、地域、企業、国家、文化、時 代の個性をも意味している」とも述べている。したがって、一人一人を収容する組 織についても、個性の重視とその発揮が期待されていた。
 だが、結局これら真意は理解されるに至っていない。「個性化」でなくむしろ「 画一化」の方向へと進んでおり、「内容」の見直しよりも「容器」命名に腐心する 。飯島氏における徒労感は嫌が上にも増していた。(以下次号)
(広島大学調査室 橋本 学)



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