工学部と哈爾濱(ハルピン)工業大学 交流協定のきっかけ

文 福永 秀春(Fukunaga, Hideharu)
工学部機械材料工学講座



 交流協定の相手というものは、ピンポイントにねらって得るケースもあろうが、ふとしたきっかけから交際が始まり、のちに相手として選ばれたというケースが多いように思われる。哈爾濱工業大学も後者に相当するので、この機会に、振り返って記憶にとどめたい。

写真 哈爾濱工業大学にて(左から福永、松村、楊氏)

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 交流協定は、松村工学部長と私が哈爾濱におもむき、一九九七年一月二十一日調印したが、その起源は十一年前の一九八六年十月二十三日にさかのぼる。
 その日、広島市と中国重慶市とが姉妹都市協定を結んだ。これに基づき、当時の網干教授が重慶市および重慶大学を訪問された。そのとき、日本語のできる案内人に指名された若い青年教師、魯云君との出会いがあった。彼の真摯な日本留学希望を聞き、私が彼の専門の研究アドバイザーになった。彼の出身大学は哈爾濱工業大学で、指導教官が姚教授であった。魯云君は重慶市で通訳の役割をしてから二年後の一九八八年十月十二日、広島大学外国人留学生として来日し、博士課程後期に学んだ。
 その彼を通じて、私と姚教授は互いの専門性の必要性から学術交流を深め、一九九〇年十一月共同研究をスタートさせた。国際会議を利用して相互に往来し、私の方では客員研究員(耿林氏、一九九三年来日)を受けたり、来日して京都大学に学んでいた、姚研究室出身の利発な青年を短期間助手(曹利氏、一九九四年採用)に迎えたりすることができた。


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 哈爾濱工業大学(学長 楊士勤氏)は国家重点大学の一つで、結構優秀な学生を輩出しているので、自然に工学部の他の研究室にも同大学出身の留学生が次々と留学してくる活況を呈し多い年には四人の留学生がいた。この機に協定締結の目的をもって、同大学院副院長(銭乙余教授)および副学長(杜善義教授)らが、それぞれ、一九九六年五月および六月に工学部を訪問され、この度の学術教育交流協定に発展したのである。思えば、人生にも幾度かあるような、出会いの機微を感じる。


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 なお、協定の締結に当たっては特別コース留学生(姚力軍、一九九四年来日)が中国語の通訳に献身的に尽くしてくれた。彼曰く、なかなか中国語にならない、もっと中国語を、それから日本語を勉強しなければならないと。



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