自著を語る

『現代思想としてのギリシア哲学』
(講談社選書メチエ127)
 著者/ 古東 哲明
 (4−6判,270ページ)1,600円+税
 1998年/講談社
 

文・ 古東 哲明


    ニヒリズムの反転

   つめたく澄んだひかりの中を、枯葉がカラカラ落ちていく。枯葉ばかりではないはずだ。ぼくもあなたも、結局はおなじ。ものみな朽ちはて、やがて虚空と化す。
 その生滅のさだめを想い、極度のむなしさに襲われたことは、どなたにもあるだろう。生きて在ることの、どうしようもない無意味さ・哀しさ・拠り所のなさを、呪った記憶もおありかもしれない。
 だが、むなしくはかないという暗い否定性が、実はそのまま、在ることのとほうもない豊麗さや、奇跡とすらいっていいような肯定性(祝祭性)の論拠でもあるとしたら、どうであろうか。虚無ではかないからこそ、存在は神秘である。
 この奇妙な逆説の提示。それがギリシア哲学のエッセンスであり、そもそも哲学の起源である。そしてその存在神秘の洞察(ギリシア人はそれをタウマゼインと名づけた)を、現代思想の最前線の議論と対話させながら、明晰な存在肯定のロジックへ昇華させること。つまりニヒリズムの反転。それがこの本のモチーフである。


ギリシア哲学元凶説

 それにしても今日、現代思想のコンテクストのなかで、ギリシア哲学はとても評判が悪い。十九世紀はじめ前後にはあれほど憧憬されもし、ヨーロッパ文化の輝かしい原点として脚光をあびていたのに(ゲーテ、ヘーゲルなど)、今日では悪の源泉あつかいだ。デリダやハイデガーやアドルノなど現代を代表する哲学者たちはこぞって、合理主義や人間中心主義や進歩思想のベースをつくったのはギリシア哲学であり、そのことが結局、現代世界の過誤や行き詰まりの元凶となったとして、ギリシア哲学をきびしく指弾する。
 だが、よく調べてみると、驚いてしまった。ギリシア哲学の誕生の状況が、実は現代の時代状況ととても似ていたからである。 


ギリシア哲学の現代性

 たとえば神の死の問題がある。
 哲学に先立つギリシア神話。それは、神的なものを擬人化する物語。神(神的なもの)の擬人化とは、神を人間的で地上的なものに化すること。つまり神の非神化。その意味で、ギリシア神話とは、神話というその名に反して、実は神の殺害のおとぎ話である。
 そのおとぎ話が剥落し、自然というデイノーン(異他的なもの・もの凄きもの)に直撃された「神の死の後」の痛苦の精神状況が生じる。死んだ神に替わるある新しい至高性を確保する必要が、精神史上あった。こうして生まれ出たのが、タレスをはじめとする古代ギリシアのコスモロジーである。あるいはすでに二元論思考の限界が気付かれ、それを突き破る新しい言説論法が模索されている(ヘラクレイトスの逆理論法、ソクラテスのエレンコス)。進歩思想や相対主義に染められた古代の「近代人」ソフィストたちとの激しい思想闘争を生きた、ソクラテスやプラトンの「ポストモダン」ぶりも見逃せないところだ。
 こんなギリシア哲学の現代性を、現代思想の成果とつきあわせながら比較検討し、来るべき時代の哲学を展望しようというのが、この本の具体的な内容をかたちづくっている。


二百年周期説?

 ちなみに、ギリシア哲学は二百年ごとに復権する。中近東に眠っていたギリシア文献が十字軍によってヨーロッパに逆輸入されたのが一二〇〇年前後。その後ルネサンスを経て一六〇〇年前後のバロック時代(シェークスピア)、さらに一八〇〇年前後のドイツロマン主義運動。西暦二〇〇〇年を前に、この本をぜひ書いておきたかった。それが理由でもある。
 選書という書物体裁のためであろう。一般の方々からの反響はストレートで、この半年間、全国各地の演壇に呼びだされた。各紙誌でも過分な書評などいただき恐縮している。これからの大学に求められる情報公開とかアカウンタビリティということも、書斎仕事のぼくらの場合、実はこんなかたちで果たせるのだとすれば、愉しい作業というほかはない。


プロフィール        
(ことう・てつあき)
☆一九五〇年生まれ
☆総合科学部教授
☆専攻 哲学・比較思想
            




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