留学生の眼(67)

  私と私の日本人の友だち  

文 写真・ ルビス・アハマアド・ダロビン
大学院国際協力研究科博士課程前期2年

 

 私が日本に来て一番最初に体験したことは、広島フラワーフェスティバルへの参加でした。私は、伝統衣装を身にまとい、日本人五十人とインドネシア人留学生二十五人で、一緒にパレードに参加しました。一か月前から週末ごとにその練習を行いました。この時、私は日本人とインドネシア人の友人をたくさん作ることができ、国際文化についていろいろな話をすることができました。
 日本人は非常に親切で、友だちになるのは難しくありませんでした。それは私たちが想像していた日本人のイメージとは違っていました。外国人は、日本人と友だちになるのはとても難しく、日本人たちはグループで固まっている、とイメージしています。しかしこれをきっかけに、私は自分自身の考えを改め、日本人と友だちになる努力をしました。
 一九九七年八月に、私たちは日本人向けに、インドネシア語スピーチコンテストやインドネシア・クイズなどのような楽しいイベントを開催しました。このイベントは、私にとっては重責で少々不安だったのですが、日本人の友人の協力もあり、広島国際会議場で、無事開催することができました。
 私は参加者のみなさんがインドネシア語を学び、そしてそれを披露してくれたことに、とても感動しました。たくさんの日本の方がインドネシアに興味をもち、私たちの国を発展させるために私たちと良い関係を持とうとしていることを知りました。私は、彼らが国際的な相互理解をしてくれたことに、とても感謝しています。
 私は初めて日本に来た時から、大学院の研究だけではなく、日本がなぜこのように早い発展を成し遂げたのか、ということも知りたいと願っていました。そのようなことから、一九九七年の一年間、IDEC院生会に副代表として関わってきました。この間に、私は多くの経験を積み、特に三つのことを学びました。
 一つ目は「その日のうちにできることは次の日に持ち越さずやり遂げる」ということでした。委員として選ばれた最初の日、私たちはその後の計画について話し合いを持ちました。メンバー全員が疲労を感じていたにもかかわらず、結論を出すために会議は午前二時まで続けられました。
 二つ目は「自分たちの能力を信じる」ことです。もし私たちがその義務を遂行できるという自信を持つことができれば、自分の意見を述べることができるのです。
 三つ目は「学生間での協力」でした。私たちは命令されることなく、協力してイベントを開催しました。それらの義務は誰のものか、という疑問を持たずに共に働きました。そして、皆の協力の結果、仕事を容易に進めることができました。
 九七年秋には、日本全国の各インドネシア留学生協会による「インドネシア人留学生協議会」があり、私は中四国エリアの代表として出席しました。その後、私は九七年度の中四国インドネシア留学生協会代表に選出されました。また、留学生協議会が、日本国内のインドネシア人留学生を対象とした、「第七回科学者会議」および「第三回科学コンテスト」を中四国で開催するように依頼してきたため、私は非常に重大な責任を負うことになりました。
 この会議とコンテストは、九八年九月に広島アステールプラザで行われ、全国からおよそ百人の留学生が集まりました。このイベントは難しい仕事ではありましたが、日本人とインドネシア人の友人の協力を得て、成功することができました。
 私の日本人の友人は、私が日本に来た時から助けてくれて、いつも生活のアドバイスをしてくれました。彼らと共にいることで、私は安心で幸せな広島での生活をおくっています。インドネシアへ帰った後も、私たちの関係が続くことを望んでいます。

フラワーフェスティバルで(一番右が筆者)






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