ドイツと広島と私の接点

 吉川 友章(よしかわ ともあき) 総合科学部自然環境研究講座 

〈部局歴〉
  昭和34・4 (日本気象協会)
    48・5 (総理府環境庁)
    54・1 (気象研究所)
  平成8・4 総合科学部
   
 


 一九九六年、気象研究所から広島大学へ転任してから、三年間があっという間に過ぎました。私は日本アルプスの谷間に育ち、いつも山の向こうの広い世界に憧れて、高校を終えるとすぐ東京に飛び出しました。東京は、私の期待通り、新しい知見とエネルギーに満ちていました。大学卒業後、高度成長により悪化した環境対策にたずさわり、中央省庁の国会対応から行政調査まで幅広く体験しました。さらに海外に目を向け、国際会議の機会を生かして三年間ドイツに留学し、学術知識もさることながら、蓄積された芸術文化に接して大きな感銘を受けました。数年間の名古屋勤務を除き、ほとんどを首都圏で過ごした私にとって、広大での教育活動はドイツ同様に貴重な経験となりました。
 十年ほど前、私は原爆放射能粒子の拡散沈着による被曝を評価するプロジェクトで、数値シミュレーションを担当し、十回あまり広島に来たことがあります。広島原爆はドイツと無縁ではありません。一九四五年、ハイゼンベルク博士が率いる世界最先端のドイツ原爆計画が、アメリカスパイによる核燃料工場の爆破で遅れ、実現の寸前に敗戦となりました。技術者がアメリカとソ連に連行され、アメリカが先にネバダ実験に成功しました。このあと、ベルリン郊外ポツダムで開かれた枢軸首脳会議で、日本に原爆を投下することを決め、日本に降伏するように宣告したことは周知の通りです。一九六九年、私がドイツ奨学費で留学したとき、そのハイゼンベルク博士が奨学財団の理事長でした。私は博士夫妻と親しく語り、著名入りの本をもらいました。
 私と広島の係わりは原爆がきっかけでしたが、後に広大に勤め、住み着いた西条の街と生活が気に入りました。酒蔵通りには独特の風格があり、広い大学のキャンパスも快適です。キャンパスにもう少し樹木が育てば、環境はさらに快適となるでしょう。学生は素直で、よく勉強します。束の間の勤務で再び東京にもどりますが、西の空を眺めるたびに、広大での三年間を思い起こすことでしょう。
 カール・ブッセは「山のあなたのなお遠く、幸い住むと人のいう」と詠いましたが、私が憧れて住んだ山のかなたは、満ち足りた思い出でいっぱいです。


学生と登った大山山頂からの西望(1996年9月)



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