退官の記

 向山 宏(むかいやま ひろし) 文学部世界史学講座 

〈部局歴〉
  昭和39・4 (私立学校)
    53・4 文学部
   
 


 夏でも冬でも朝五時に起きる、といえば威勢が良いが、実際には親譲りの前立線肥大のために、小用で目が覚めるだけである。老いてくると睡眠時間も短くなって、面倒だから、えいと起き出してしまう。
 朝の五時は、夏は明けきっているが、冬は真っ暗で、星がピカピカに輝いている。近くの早稲田神社にお参りをして、暗い境内でラジオ体操をする。腕立て伏せをする。天突き体操を百回する。これで冬でも汗をかく。それから七キロほど走るのである。
 大芝水門の周回マラソンコースは一周三三〇〇メートルなので、二周すれば家からの距離をいれて一〇キロほどになる。六周走るとハーフマラソンを越えるが、これは滅多にやらない。普通は一周か二周である。
 走って帰ると、頭から水をかぶる。年寄りの冷や水である。それから、朝食を手早く済ませ、七時三十七分の通勤列車にむけて、自転車を飛ばす。
 走りはじめて八年が過ぎ、いよいよ停年退官である。走っていて後悔したことも苦しいと思ったこともない。むしろ、一日のうちで一番やすらかな至福の時である。それなのに、停年退官を迎えたら、走るのは止めるだろうと思っている。私にとって、現役の勤務とはそのようなものであり、停年退官とはそのようなものであるらしい。とりあえずは郷里に帰って、これも親譲りの荒れ屋敷いっぱいに、野草を植えたいと思う。






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