五十年史編集室だより(9) 


 保管・収集、公開、個性化 

五十年史編集専門委員(総合科学部) 小 池 聖 一
  

改革のなかで

 国立大学法人化の動きは、国立大学に高等教育の機会均等的機関としての役割だけでなく、他大学との差別化・個性化を要求しています。そして、個性化を図るとなれば、地域性や対外発信能力を高めなければなりません。このためには、まず、国立大学自体を、そして国立大学が地域とともにあることを地域住民に理解してもらう必要があるでしょう。
 また、国立大学法人化は、国立大学に効率性を要求しています。このためには、大学の公文書が現用→半現用→非現用記録へと移行する過程で、日常的な執務に必要がない半現用・非現用記録の整理・保管を一元化し、スペースおよび事務作業の効率性を図る必要性もあるでしょう。また、情報公開法の施行により、保管・整理から公開までの一貫した組織を整備する方向にあります。そして、保管から公開までの一元的なシステムができれば国立大学は、部局間の割拠性を排して総体としての政策立案を行う基盤を整備することとなります。そうすれば、従来、個性や伝統とは違った意味で割拠性が高い国立大学内で有機的な連帯感をつくり、真の意味での国立大学の個性化が追求されるのではないでしょうか。


大学の個性化
 このような状況のなかで、広島大学五十年史編集室で行っている諸作業は、全体のなかで広島大学の個性を記述する仕事であるといえます。年史編纂を通じて、これまでを振り返ることは、これからを展望する知の基盤を作ることでもあります。編集室で収集しつつある教官・OBからの寄贈資料等は、広島大学を一つの核とする交流の場を提供するものですし、これに関係諸機関から収集した資料もあわせて広島大学が行ってきたことを研究するならば、次の展開に指針をあたえる基礎資料ともなります。そして、集積された資料が公開され、さらに、展示等のビジュアルな方法がとられるならば地域の方々と対話する場所を提供することともなるでしょう。
 実際、私立大学では、すでに個性化と卒業生との接点として文書館やセンターを設立しています(早稲田大学大学史資料センター、日本女子大学成瀬記念館等)。また、国立大学でも東北大学記念資料室が昭和三八(一九六三)年に設置されています。同資料室では、東北大学およびその学術研究に寄与する歴史的資料の収集保存・公開施設として、常設・企画展示を通じて広く一般に公開しており、江沢民主席の来室をうけたことで東北大学と中国との学術交流の起点ともなっています。広島大学が中四国の中核大学としての役割を果たすならば、地域との接点を有する施設として、アーカイブ・ホール的な文書館やセンターが必要ではないでしょうか。


効率化と文書館
 また、五十年史編集室が年史の編纂過程で公文書を集積させていくことは、実質的に広島大学の公文書館機能も有していくこととなります。これまで、日本には、欧米諸国では常識化している公文書館が整備されてきませんでした。日本の官僚システムでは、前例踏襲主義に代表される増分的な政策が連綿と続いてきたため、振り返る余裕と時間を節約したためかもしれません。この点、広島大学も例外ではありません。しかし、今日、大学もまた少子化やIT革命のような社会構造全体の変革のなかにあり、これに対応した新たな政策が必要です。この新しい政策にかかる労力は膨大です。しかし、幸いなことに広島大学は、森戸辰男初代学長期の東千田町への統合過程や、東広島キャンパスへの統合移転、また、学生紛争期の地域住民との関係等にあたって作成された諸構想等の経験を持っています。そこで真剣に討議されたことは集積されて公文書として残っています。これらの公文書類を見れば、新しい政策立案上のコストを減らし、政策的な継承性も主張できるでしょう。また、政策評価のシュミレーションにも役立つことと思います。特に、広島大学の場合は、包括校以来の伝統からみて部局間の割拠性が高い大学であるといわれています。それは、分散キャンパスによってもたらされた側面も大きいのではないでしょうか。となれば、平成六(一九九四)年の東広島キャンパスへの統合移転の過程を見れば、広島大学の全体像と将来像を考えるうえで有益な考えも浮かび上がることでしょう。
 これは、日常的に排出される公文書全般にも当てはまります。恒常的に保管・整理を行うことで、広島大学が将来、新たに改革を必要とした時に備えることにもなるからです。
 以上のように広島大学五十年史の編纂過程は、保管と収集、公開・展示を通じて広島大学の地域性と個性化に貢献することとなり、公文書館機能を持っていくことによって大学の政策立案にも対応できる豊かな可能性を持っていると言えるのです。
(平成十二年六月十六日)






 大学史の散歩道 

 正門移転時(1952年11月)のフェニックス(左の写真)とフェニックス前で記念撮影する森戸辰男初代学長(1963年頃カ、右頁下の写真)。発足時の正門はここより北にあったが、1952年に理学部正面に移設され、後に「森戸道路」と呼ばれることになるメインストリートが形成された。当初は小さな株であったフェニックスだが、大学の発展とともに大きく成長した。なお、門に近い方が土壌条件が良いため、現在のような樹高の差が生じた。

  フェニックスと広島大学
 正門前の6本のフェニックス、森戸道路のメタセコイアの並木に茶褐色の理学部1号館。学生時代を東千田キャンパスで過ごした筆者にとって、広島大学といわれて真っ先に目に浮かぶのはこの光景である。
 発足当時の広島大学は、ほとんど緑樹のない焼け野原であった。初代学長森戸辰男は、大学を「生々の色、希望の色、平和の色」緑で包むため、世界各国の大学に大学緑化への協力を求めた(のちに緑はスクール・カラーとなる)。これに対する反響は大きく、苗木・種子36件、寄附金32件が寄せられた。東千田のフェニックスは、ウエスレイヤン大学(アメリカ合衆国)の寄附金をもとに購入されたものである。
 森戸は、「フェニックスは、灰の中から甦った広島大学の象徴にしたいから是非大学の正門の前に植えたい。メタセコイアはとこしえの象徴として正門通りの並木としたい」と構想した。以後、フェニックスは広島大学の象徴となっていく。
 さて、このフェニックス、実は1952年に植えられたのは、左右に2本ずつ計4本のみであった。電車通り沿いに一本ずつ増し植えして6本となるのは、1954年のことと思われる。
 西条への統合移転にあたっては、フェニックスの移植も検討されたが、気候の関係で断念された。現在、「国際の森」(東広島キャンパス)では、5本のフェニックスのまわりを国際交流協定締結校から贈られた木々が取り囲む。今も昔も、フェニックスは平和と国際性、そして広島大学のシンボルである。
   
(菅 真城)
 
50年史編集室ホームページ http://home.hiroshima-u.ac.jp/nenshi50/

業務日誌抄録

平成十一年
12・17 『広島大学の50年』を発送。
12・20 これ以降年度末まで各方面より借用した資料の複製を作成、返却。
平成十二年
2・4 間清氏(昭和二三年文理大卒)より資料提供の連絡を受ける。
2・18 平田諭治氏(鳴門教育大学)年史編纂について取材のため来室。
3・8 医学資料館竣工式写真撮影。
3・9 高橋啓氏(鳴門教育大学)年史編纂について取材のため来室。
 小尾孟夫氏(学校教育学部)より『授業科目要覧』『学生便覧』等二四冊受贈。
3・13〜15 東京出張(小宮山・菅)。◇国立公文書館◇国立教育研究所◇国立国会図書館
3・16 第十三回五十年史編集幹事会。
3・22 第八回研究会
 報告 竹山晴夫名誉教授(理学部)
 「広島大学の大学改革への取り組み」
4・3 橋本美恵子氏より『広島高等学校卒業アルバム 昭和二年』を受贈。
4・6 第十四回五十年史編集幹事会。
4・12 第十五回五十年史編集幹事会。
4・19 第十六回五十年史編集幹事会。
5・10 附属東雲中学校より『創立五十周年記念誌』を受贈。
5・12 事務局長室、総務部長室、総務部の資料調査(小池幹事・小宮山・菅)。
5・18 学生部文書資料調査(大林幹事・羽田幹事・小宮山・菅)。
5・24 経理部文書資料調査(小池幹事・小宮山・菅)。
 『広島大学史紀要』第二号を発送。
5・25 施設部文書資料調査。(小宮山・菅)
5・26 大阪出張(小宮山・菅)。◇全国大学史資料協議会西日本部会二〇〇〇年度総会・第一回研究会
5・31 第十七回五十年史編集幹事会。
6・7 井内慶次郎氏より『観光』第一巻第一号(森戸辰男氏論文所収)を受贈。
6・9 総務課広報調査係所蔵の新聞記事切り抜き他百十八点を借用。
6・12 医学部五〇年史写真展を取材(小宮山・菅)。
6・13 広仁会より『広島大学医学部五○年史』通史編・クラブ編を受贈。



〈連絡先〉50年史編集室 電話 0824(24)6050 FAX 0824(24)6049
広大フォーラム32期2号 目次に戻る