留学生の眼(87)


日本との出会い


翻訳してくれた谷口君と一緒に
 一九九八年九月二十四日午後七時四十五分、私が初めて日本の地をふんだ瞬間でした。日本は私にとって長年訪れてみたいと思いつづけていた国でした。私がこの国に思いをはせるようになったのは、かつてマレーシアでも放映された日本のあるテレビドラマ”おしん”がきっかけでした。そのドラマは”おしん”という名の女性が苦しくとも一生懸命生き抜き、激動の日々の末、ついには貧しい家庭から成功への階段に駆け上がることになるという物語です。このドラマのなかでなによりも私が魅了されたのは、その典型的な日本女性の描写のしかたです。強い心を持ち、献身的で、誠実、また素直で行動のなかにも奥ゆかしさが感じられるその姿に、日本女性に対する淡い想いをいだくようになりました。

この日本でイスラム教徒であること

 イスラム教ではない国に行くたびに私は、自分にとっての決まりきった習慣を実行することにかなりの困難を感じてしまいます。たとえば、お祈りをするための場所やイスラム教の戒律に従った食事を見つけることは、大変難しいのです。しかし私は、これは私にとってのちょっとした挑戦だと思って自分がいる環境を責めないようにしています。イスラムとはある意味では大変柔軟で、多くの人が思っているような宗教ではないのです。
 日本で暮らしていて自然と目が向かってしまうのは、日本の伝統文化とそのなかに見受けられる慣習です。それらのなかには私たちイスラム教徒にも通ずるものがいくつかあります。たとえば、買い物のさいに、レジの方は必ず私が購入しようとレジに運んできた商品の値段を読み上げてくれます。また私が支払うべき金額の合計、私が手渡した金額そしておつりの額も知らせてくれます。この商取引にかかわる一連の流れはイスラム語では”aqad”といいます。買い物客との金銭授受にこのように細かく気を配る習慣は日本とイスラム文化に共通に見られます。

二〇〇一年九月十一日

九月十一日、世界中のほとんどすべての人々が、多くのメディアによって、イスラムとその教えに対して誤解を植えつけられることになってしまいました。一言だけイスラム教について説明しておきたいと思います。まずイスラムという名は、平和と服従を意味するアラビア起源の言葉”salama”からきています。平和とは信者と彼を取り巻く環境の平静を意味し、服従とは神アッラーの意志に服することを言います。アッラーとはアラビア語で”唯一の神”という意味です。アッラーはイスラム教徒だけにとっての神ではありません。この世に生きるものすべてにとっての神です。今や私たちは”ジハード”という言葉がメディアによって誤って使われていることをよく耳にします。実際、イスラムで”ジハード”とは苦悩すること、とりわけ神の教えに従うように自らを律し努力すること、あるいは力を尽くすことをいいます。日々のくらしのなかで神に喜んでもらえるためになされるいかなる努力もジハードとみなされるのです。なかでももっとも崇高とされるジハードは、暴君に立ち向かうことと真実を口にすることです。悪しき行いに走らぬよう自分自身を戒めることも立派なジハードです。しかしながらイスラム教国でない他のほとんどの国々においてジハードがその本来の意味するところと異なって”聖戦”に翻訳され、テロを正当化する意味で使われているのです。しかし結論を急ぐまえに、触れなければならないことがあります。私は日本の方々のニュースにたいする、よりバランスの取れた接しかたに感銘を受けました。物事をわきまえた一人の人間として、われわれイスラム教徒も感情的にならないようにしなければなりません。

おわりに

 私が”おしん”に淡い想いを抱くようになったのは、”おしん”の苦しい中にも自らを律し努力しつづける姿、平和を愛するやさしい姿の中に、イスラムの教えと共通する価値を見つけていたからだと思います。そしてこの共通の価値は、あなたがイスラム教徒であろうと、キリスト教徒であろうと、仏教徒であろうと変わらないものだと思います。世界中の誰もが、いかなる宗教であろうともそれを理解し受け入れる寛容さをもち、互いの宗教の違いを尊重しあえる豊かな社会に住めることを願ってやみません。
(翻訳:谷 口   淳)




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