今年3月の大学院コンパにて
(筆者左から3番目)
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一 広大と高麗大学との一番違う点
高麗大学といえば韓国三大大学の一つであり、理系より文系が強く、男子学生が多い大学です。教育制度の面で広大と大きく違ったのは、教養的教育がほとんどないばかりでなく、ゼミ方式の授業も皆無であったことです。四年間、一方的に教えられる専門科目ばかりだったので、自ら自分の頭で考え、問題を解決する機会がありませんでした。したがって、サークルなどのグループ活動を通して自主的に学習をするしかありませんでした。
ところで、高麗大学は、一九六〇年の李承晩(イ・ソンマン)独裁政権を打倒した学生革命以来、韓国学生運動のメッカとなってきたことから、そのグループ・スタディも容易ではありませんでした。特に、私が大学に入学した一九八〇年春は十八年間の長期独裁者朴正煕(バク・チョンヒ)大統領が暗殺された(一九七九年十月)直後であり、同年五・一七クーデタにより再び全斗煥(ゾン・ドファン)軍部独裁政権が確立したことで、文字通り「血塗れの大学時代」となりました。大学は政府の「休校令」により度々閉鎖されました。また開講の時でも、大学には制服の警察や学生に変装した軍人が常に監視の目を光らせていました。常識や良心に従って行動した学生に対して、政府は強制的に軍隊や刑務所に入れ、暴行をあびせて、重傷を負わせたり、殺したりしました。教員の授業内容も全てチェックされ、政権に少しでも批判的な内容であれば、休職させられたり、反逆者となり刑務所に入れられました。
私は、この暗黒な大学時代のおかげ(?)で、一人の人間として常識や良心に従って生きることがいかに大変なことなのか、またいかに価値があるものかを学びました。このことが、常識が通じる正常な人間社会を実現するために、常に考えて行動していかなくてはならないという私の生き方の「原点」となりました。また、その延長線で卒業後には、韓国という井戸の中から狭い空を眺めるような「限界」を乗り越えて、太平洋の向こう側に位置する覇権国米国の動向を注視しながら、より広い視点で研究や実践を続けるために玄界灘を渡ってきました。
今このように振り返ってみたら、結果として教養的教育や討論を疎かにする教育制度をのりこえて、「社会に対する大学人としての自覚や責任感」を持つことができたのは、常に社会の変化に目覚め、社会のために生きようとする姿勢を保持し続けてきたからだと思っています。
皆さんもぜひ大学時代に、自分の生き方の「原点」を見つけるために努力をしてほしいと思います。常に世界の動きを理解し、よりよい社会の実現のために自分の限られた時間とエネルギーを惜しまない人間になってほしいと思います。
二 広大が優れている点
広大が優れている点は、キャンパスの広さや快適さと歴史ある図書館蔵書の豊富さが指摘できます。また、教養科目をはじめ授業科目の多様性、特に少人数のゼミ方式による卒論レベルの高さが挙げられます。
三 世界の大学として広大に必要なもの
現代世界では、産業のIT化と金融の証券化が加速する一方で、他面ではかつてのない貧困や飢餓が世界規模で深刻化しており、まさに、「人類文明の危機的状況」といえます。この単一の地球社会に向けてのグローバリゼーションの波が大多数の人々を急速に飲み込む中で、二十一世紀の大学は、果たしてこの溺れていく大多数の弱者を救い出す覚悟をもち、その使命を果たしていくことができるのでしょうか。
富の世界一極集中化と、これに伴う貧富格差の拡大と貧困や飢餓の蔓延、壊滅的な生命体や自然破壊などの「種の終焉」の危機に直面して、広島大学は、学生が世界の現状を的確に把握し、世界の非常識に立ち向かえる地球市民となるように育てていかなければならないと思います。そのために、当面の地球村の問題解決に学生や地域住民が実践的に参加できるような世界NGO構築に総力を挙げて取り組むべきだと思います。
(原文・日本語)