退職者から広大へのメッセージ




「ゆったりとして医療を」

歯学部附属病院薬剤部 熊谷 三千男




 霞キャンパスにはほんとにお世話になりました。昭和四十二年以来三十五年の年月を思いますと、一言では語れない感慨深い想いがあります。職域が平成元年四月一日に医学部附属病院から歯学部附属病院に変わりはしましたが、人生の大半を霞キャンパスの住人として過ごしてまいりました。当初、周りは蓮畑があり、宇品線をSLが走ったりしていましたが、現在ではその痕跡すらみることはなくなりました。霞を取り巻く街はすっかり変わりました。昭和時代のゆったりした時間の流れは平成に入り急速になったように感じます。霞キャンパスは医療キャンパスです。今医療は大きく変わりつつあります。真のリエゾンで患者さんに奉仕するためのセイフティマネジメントに非常な努力がはらわれ、そのための方策がいろいろ試みられようとしています。期待しています。しかし、急速な時間の流れはヒトの心からゆとりを奪います。こういう時こそ、深呼吸でもして気持ちをゆったりとして、霞リエゾンキャンパスを成熟させてください。祈念。
【部局歴】 医学部附属病院、歯学部附属病院




「しなやかに揺れて・・・」

大学院教育学研究科 造形芸術教育学講座 河野 通男


首を傾けているのが本人ですが、
決して肩に手をまわしてはいません。
悪しからず。



 仮に建物にたとえると、タテの柱が「社会」であり、ヨコの柱が「家庭」であり、高さの柱が「大学」ではないかと思います。この建物の土台―つまり基礎にあたる部分が「若者層」ではないでしょうか。従って基礎工事をしっかりしないと建物が危ない。最近、高層ビルが色々話題になっていますが、それらは風雪や地震に耐えうるように、しなやかに揺れる構造になっているといいます。やはり、この「揺れ」こそが文化的ダイナミズムを生むともいえます。
 いかに高尚な研究をしても、自分の学問なり、仕事なりが地域社会に還元されないと意味がないと思います。じっと殻に閉じこもらないで、揺れに揺れてください。
 長い間お世話になりましてありがとうございました。




「二つの眼鏡」

大学院文学研究科 言語文化学講座 古浦 敏生


石垣島にて



 文学部言語学研究室に勤務して三十六年余となります。長らくお世話になったものです。最近は本来の近眼に老眼も加わり、眼鏡を二つ持ち歩く日々です。出席を取るのに名表と学生の顔が同じ眼鏡で見えないという不自由さも手伝って、名前を覚えるのに苦労しています。中世最大の詩人、ダンテの『神曲』には、「私たちはまるで遠視のように…遠くのものを見はするが…」(地獄編、第10歌100 105)とあります。地獄の亡者はダンテが四年二ヶ月後に故郷フィレンツェを追われることは予見できても、自分の息子が今どうしているかは分からないのだそうです。退職後には老眼の強みで、広大や言語研の将来の在り様が見えてくるのかもしれません。




「雑感」

医学部管理課 児玉 弘




 まさか、四十年前「還暦を迎え定年を迎える」とは思ってもいませんでした。
 皆様方のご支援ご助力に感謝申し上げます。
 随分時代も変わったものです。
 転任当時机の上には、ペン皿、インク壺、ソロバン、こより、千枚通し、今は、パソコン端末がデンと座ってこちらを睨んでいます。メールとかで、ことばは無くても用は足ります。
 便利にはなりましたが人間らしさが失われていくように思えてなりません。
 何代か前の学部長があえて大学生に「一に挨拶、二に掃除・・・・」と言われました。
 人間らしさの基本、ことば、礼、身辺整理、創造工夫、反省等々ゆっくり考えたいものです。
 何はともかく、永い間ありがとうございました。
【部局歴】 会計課、経理部経理課、医学部附属病院、教養部、教育学部東雲分校、学校教育学部、教育学部、文学部、歯学部附属病院、歯学部、附属学校部、教育学部、医学部、工学部、生物生産学部、医学部




「刻の佇みと共に」

医学部医学科 小林 孝


今では貴重品になっている松茸狩りで親友と
(筆者中央)



 男子学生のファッションが角帽詰襟から茶髪ピアスに変化するのを具に見て来た感のある在職期間でした。
 それと同じように大学も変化しました。今また、それ以上の変化を遂げようとしています。
 しかし、いかに変化を遂げようとも大学にとって一番大事なものは学生です。その大事な学生を真に大切に思う心を忘れないでいただきたいものです。
 激動の時期だからこそ大切なものを見失うことのないよう教育の理念を貫いていただきたいと願って居ります。
 永い間、大変お世話になりました。
【部局歴】 医学部




「研究者養成の国際協力に向けて」

医学部薬理学講座 笹 征史


本年9月の中国医科大学学長室での
客員教授授与式後の
副学長(Weiping Teng教授)、
京都大学芹川教授(左側)らとの懇談
(筆者中央)



 二十歳代も終わり頃学位を得てすぐ米国ニューヨーク州立大学に職を得ました。このときの二年数ヶ月の体験が、その後の医学研究へ進む大きな動機と方向、そして多くの外国からの研究者を友人として得ることが出来ました。留学経験は研究面のみならず、国と国との理解に意義が大きいことを感じ、本学教授に就任来、外国からの留学希望者を積極的に受け入れ、学位を取得するように指導し、あるいはポスドクや研究者を受け入れてきました。この中の多くは学位を得てインドネシア、中国など本国に帰り活躍しております。外国からの留学生を受け入れ、研究者として育てられることは当該国の学問発展だけでなく、国際理解に貢献し、日本の安全と発展に資するものと思います。本学においては帰国後に活躍されるよう外国からの優秀な研究者を多く育てられることを願って止みません。




「基礎的研究はどうなる」

大学院工学研究科 化学工学講座 品川 秀夫


実験装置の前で



 昭和三十七年に広島大学工学部応用化学科を卒業して創立間もない化学工学科に教務員として着任以来四十年が経過しました。退官に当たり、昨今、教官の業績が研究報告数で評価される傾向が益々強くなっているように感じるのは私だけでしょうか。そのためか、私の関わる移動現象分野においても、実験結果が再現性に乏しく、成果を得るのに長時間を要し工学的基礎研究部門に属する蒸発、凝縮、核生成などの相変化を伴う問題を直接的に対象とした研究報告は少なくなってきております。大学における研究の本質はその数ではなく、成果を得るために時間を要しても現象に対する基本的知見を得ることにあると思いますが如何でしょうか。
最後に、広島大学の発展と皆様の御健勝を祈念して去ります。




「広島大学ありがとう」

生物生産学部事務部 瀬戸 昭造


平成13年9月
長崎方面に旅行時



 大学とは縁のなかった私が昭和四十五年六月、本学に採用となり、以来、三十二年十ヶ月を経て退職することになりました。
 この間、上司・同僚・先生方との交流を通じて、大学でなければ得られないであろう数多くの知識と経験を授かりました。
 私の恩返しとして大学に残すものが何もないので、在職中、皆様にご迷惑をかけた私の頑固で強情の性分を連れて出ることにします。今後を歩むうえで、在職中に得た見聞を礎に私なりの人生を大切に生きていきます。関わりのあった皆様方に感謝し、頭を下げます。長い間、ありがとうございました。
【部局歴】 原爆放射能医学研究所、医学部附属病院、工学部、生物生産学部


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